”駅前遊郭”《衆楽園》 風紀取締りの厳重な鳥取の城下町に生まれ、消えた、遊蕩の巷

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かつて全国に500ヵ所以上も存在したという「花街」。各地の遊興空間創出の経緯を辿り、「紅灯の巷」に渦巻く人間たちの欲望の正体、そして近代都市形成の秘密を明かすのは、『花街』を著した加藤政洋氏。ここではそのなかから鳥取駅前に存在した”駅前遊郭”《衆楽園》85年の歴史を追ってみよう。

85年の系譜

昭和33(1958)年2月、売春防止法の罰則施行を2ヵ月後にひかえ、営業内容の転換に取り組みはじめた地区を、地元紙は連日のように報じた。紙上には、「消えゆく衆楽園──八五年の不夜城に終止符」、「衆楽園八十五年の歴史──消えゆく鳥取市の赤線地帯」、あるいは「売春防止法の実施で八十五年間の歴史を閉じた市内赤線地帯衆楽園〔は〕……町名も錦町通りとして新しく生まれ変わった」(施行後の記事)という見出しや文章がならぶ。《衆楽園》とは、JR鳥取駅からもほど近い地区にほかならない。

《衆楽園》が赤線であったということは、85年前、つまり明治初年に遊廓として成立し、戦後も営業を継続していたものと考えられる。駅から近距離という立地は気にかかるものの、《衆楽園》の来歴を追跡した一連の記事からうかびあがるのは、じつに興味ぶかい場所の系譜である。

駅前遊廓

「「日夜絃歌しきりに、或ひは喋々喃々たる淫らなる男女の私語は汽車通学の学生に及ぼす影響や甚大なるものあり、よつて速かに……」と一県議をして毎年県会の壇上で叫ばせるところの黒塀内の遊廓は成程市の玄関口の位置にあり、仮令所謂喋々喃々たる痴話は洩れなくとも文化の高きを誇る鳥取市にとつて場所が悪い、湯所の寂れた方面なんかに移転することは、その土地の繁栄上にもよく一挙両得の策であれば早晩移転の必要あらう。」(因伯史話会編『因伯人情と風俗』)

大正15(1926)年出版の郷土誌に指摘されるとおり、駅前の遊廓が問題視されていた。遊廓の多くが既成市街地の外縁に位置しているところに、鉄道の敷設にともない停車場も同じく旧市街地のはずれに設置されたことから、はからずも両者が近接してしまうこともあった。

たとえば、大阪の南海本線堺駅のすぐ南側には龍神遊廓があり、明治期には移転問題がおこっているし、神戸駅や鹿児島駅は、明治初年に設置された遊廓の所在地へ建設されることになったため、遊廓は早々に移転している。「黒塀内」にあるというこの鳥取の遊廓もまた、駅近接の典型といってよい。

都市再編の起点

「尚武勤倹を藩是として、芝居もめったに許さなかった」というほどに「風紀の取締りは厳重」であった城下町時代に遊廓などあろうはずもなく(『鳥取市七十年』)、この駅前遊廓も神戸や鹿児島と同じく明治初年に成立したものと思われる。昭和11(1936)年に編纂された田山停雲『鳥取県の歓楽境』を開くと、鳥取・米子・倉吉の「花街」が紹介されており、鳥取については2つの「花柳街」、すなわち料亭の櫛比する一流の花街となった本町と、貸座敷の営業地であった「新地」とが併記されている。旧袋川を挟んで本町の花街と「百花姸を競ふ」と謳われた「新地」こそ、駅前に位置する「黒塀内の遊廓」にほかならない。

この遊廓は一般に《衆楽園》と呼ばれていた。明治初年にさかのぼる《衆楽園》の形成過程は、じつに興味ぶかい。市制70年を記念して編纂された『鳥取市七十年』は、維新後におこった都市空間の再編が、この《衆楽園》にはじまったことを、そのままずばり「廃藩後の市中の変貌はまづ『衆楽園』におこったとみてよい」、と指摘する。

庭園の再開発

《衆楽園》は藩主池田家の下屋敷で、敷地内には岡山城下にある「後楽園」にちなんだ庭園があった。「廃藩後の市中の変貌」が旧下屋敷たる《衆楽園》からおこったのは、時代の変わり目に偶然にも生じたこの空閑地を、抜け目なく用途転換しようとした者があらわれたからであった。

明治4(1871)年、市内で桶工をしていた人物が、幕末・維新の混乱を経るなかで放置され荒廃していた《衆楽園》の跡地払い下げを県庁に出願し、翌年の正月には大衆的な娯楽場として市民に開放したのだった。

当然のことながら、それまでは藩主の下屋敷ということで足をふみ入れたことなどなかった市民は、庭園の開放という維新を象徴するかのような出来事と物珍しさにつられ、こぞって《衆楽園》を訪れたという。その人出とともに、園内には仮設の茶屋、見世物小屋、劇場、楊弓場がぞくぞくと設営された。

にぎわいがにぎわいを呼び、いつしか《衆楽園》には見世物小屋などにまじって「黒い板塀」で囲われた家屋が建ち並ぶ。それは、芸妓を抱える置屋である。一説では、「そのころ園内には約二百軒の芸妓置屋業などが肩を並べて客を引き大きな家では娼妓が百名、小さな家でも三十名は抱えていた」(『日本海新聞』昭和33年2月10日)。芸妓と娼妓が混同されているのはとりあえず措くとしても、200軒の業者、あるいは1軒で抱える娼妓が100名というのはいささか誇張にすぎるだろうか。下屋敷の庭園がまたたく間に盛り場に、さらには遊廓色の強い遊興空間に変貌したことだけはたしかなようだ。

この時期、すでにふれた旧袋川を挟んで「百花姸を競ふ」と称された本町の花街も成立していた。明治初年に一人の相撲取が出雲から芸妓をつれてきて開業した置屋がその端緒であるといい、明治期を通じて芸妓置屋や料理屋が集積し、「華やかな芸妓街」をかたちづくるにいたった。《衆楽園》に対しては、「町芸妓」の花街と位置づけられよう。

ちなみに、鳥取では、「芸妓置屋」を「検番(券番)」と呼び、置屋を取りまとめ料理屋と仲介する通常の「検番」を「芸妓検番事務所」と呼んでいた。大正期の「検番」すなわち置屋は、「花検、西検、叶家、丹吉、大正券、松検、福久栄、如月、南検」があり、本町3、4丁目に点在している。当時の「検番事務所」は3丁目にあった。

二枚鑑札と遊廓

本町に花街が成立すると、もう一方の《衆楽園》の取り扱いがおのずと問題になる。鳥取県の島根県合併後、島根県令により発布された明治10年の「芸娼妓取締規則」において、《衆楽園》は正式に遊廓として指定された(『鳥取県史 近代 第四巻』)。さらに、明治11年頃には「二枚鑑札と称せられた芸娼妓が許可」されている。「二枚鑑札」とは芸妓が娼妓をも兼ねることを意味した。

明治33(1900)年に施行された「娼妓取締規則」にもとづく転廃業によって、草創期からの業者は数を減じたというが、大正期には妓楼と芸妓置屋とが貸座敷組合と新地検番事務所を組織し(本城常雄編『大正の鳥取市案内』)、駅近傍の遊興空間をなしていた。おそらく、「娼妓取締規則」によって「二枚鑑札」は廃され、明治後期以降に廓内における芸娼の分離が進んだものと思われる。

この新地検番事務所であるが、昭和4(1929)年7月から、本町の検番事務所とは取り引きのない、つまり本町の芸妓が出入りしない市内の料理屋約60軒をもって組織された「二部料理屋組合」に対して芸妓の送り込みを開始した。廓内の芸妓が一般の料理屋に出入りするというのは他都市ではあまりみられない制度であるが、これもまた最初は芸妓置屋中心、そして「二枚鑑札」になったという《衆楽園》の歴史的な経緯とも関連しているのかもしれない。

赤線の終わり

徳川時代の藩主の下屋敷から、一時期の盛り場、そして曖昧な花街を経て、最終的には遊廓へと変貌した《衆楽園》。明治41(1908)年に鳥取駅が開設された結果、はからずも《衆楽園》は駅前遊廓となった。駅前となる以前(明治の中頃)から移転の必要性は繰り返し議論され、また前々項冒頭の引用文に「一県議をして毎年県会の壇上で叫ばせる」とあるように、「十二〔一九二三〕年には、かねて廃娼居士のあだ名のあった森十治議員の提案で、県会は知事に鳥取・境両遊郭の移転を建議したが、これはついに実現を見ずに終わった」のである(『鳥取県史 近代 第四巻』)。

戦前からの議論むなしく、戦後《衆楽園》は赤線へと移行、そして昭和33(1958)年、売春防止法の施行によって、その歴史に終止符が打たれた。

(『花街』より)

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