【追悼・大山のぶ代さん】「ドラえもん」降板を告げた時には「まだやりたい!」と…元プロデューサーが明かす制作秘話
9月29日、女優で声優、脚本家なども務めた大山のぶ代さんが亡くなった。90歳だった。代表作といえば、何といっても四半世紀以上にわたりその声を演じ続けたアニメ「ドラえもん」(テレビ朝日)だろう。「ドラえもん」の当時のプロデュサーが振り返る。
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50代以上の方ならご存知かもしれないが、大山さんは「ドラえもん」の初代声優ではない。
藤子・F・不二雄さん(1933〜1996)が原作の漫画「ドラえもん」を1973年に初めてアニメ化したのは日本テレビだった。制作は日本テレビ動画(日テレとの資本関係はない)で、初代・ドラえもんは「平成天才バカボン」のバカボンのパパや映画「ロッキー」のエイドリアンの兄ポーリーなどの吹き替えで知られる富田耕生さん(1936〜2020)だった。当然ながら、おじさん声のドラえもんだ。
ところが、視聴率は伸びず、1クールでテコ入れされ、2代目・ドラえもんとして選ばれたのは「ゲゲゲの鬼太郎」の鬼太郎や「銀河鉄道999」の星野哲朗、「ドラゴンボール」の孫悟空などで知られる野沢雅子さん(87)だった。しかし、野沢さんをもってしても人気が上向くことはなく、加えて制作会社が倒産したため日テレ版「ドラえもん」はわずか2クールで打ち切られた。
テレ朝版「ドラえもん」がスタートするのは6年後の79年だ。シンエイ動画の制作となり、まずはパイロット版が制作された。同社設立に参加し、アニメ「ドラえもん」のプロデューサーを務めた別紙壮一さん(83)が当時を振り返る。
「『ドラえもん』は絶対に通したかった企画だったので、パイロット版とはいえAAクラスの声優さんで固めたんです」
日テレが一度失敗した作品だっただけに力も入った。パイロット版のレギュラー声優陣は以下の通りだった。
ギャラが高くて赤字に
▼ドラえもん=大山のぶ代
「ハリスの旋風」石田国松、「のらくろ」のらくろ
▼のび太=小原乃梨子(1935〜2024)
「ヤッターマン」ドロンジョ、「未来少年コナン」コナン
▼静香=野村道子(86)
「サザエさん」2代目ワカメ、「みつばちマーヤの冒険」マーヤ
▼スネ夫=肝付兼太(1935〜2016)
「ジャングル黒べえ」黒べえ、「ドカベン」殿馬一人
▼ジャイアン=たてかべ和也(1934〜2015)
「ど根性ガエル」ゴリライモ、「ヤッターマン」トンズラー
「大山さんは当時、『ハリスの旋風』(フジテレビ)や『のらくろ』(同)などで有名で、少年の声でよく出ていらした。音響監督さんたちも『ドラえもんは大山さんでピッタリだね』と言っていました。もっとも、通常、セールスするために作るパイロット版の声優は、本放送の時には新たにオーディションをして変えるものなんですけどね」
パイロット版の出来の良さから、テレ朝での放送が決まる。
「それでテレ朝のプロデューサーに『声優さん、どうしますか?』と聞くと、『(声が)合っているから、このままでいこう』って言ったもので、そのまま続投することに。でも、通常、本放送のギャラは、Aクラスの声優2人、Bクラス3人、Cクラス5人とかで組むものなんです。『ドラえもん』のパイロット版は全員がAAクラスの声優でしたから、ギャラが高くなる。もちろん最初は赤字でしたが、すぐにヒットしたので何とかなりました」
大山さんもインタビューで当時をこう振り返っている。
続けるには新陳代謝が必要
《草創期は、アニメの制作費もできるだけ低く抑えようという時代でした。そんな中で、誰もが主役を務められる5人が集まっただけでも“これは大変なことをやっているな”と感じたし、力を入れなければと思いました》(「週刊ポスト」2004年12月24日号)
放送初期の「ドラえもん」は手探りだったという。
「例えば、台本でしずかちゃんがのび太を呼ぶ際、『のび太くん』だったり『のび太さん』だったり、呼び方が統一できていなかったんです。そういう時に、しずかちゃんの野村さんが『女の子だから“さん”がいいんじゃない?』と言ったりして、みんなで作っていったんです。大山さんは『“バカ”とかそういう汚い言葉はそぐわないから使わないほうがいいんじゃないかしら』と指摘されたりして、だんだん『ドラえもん』が出来上がっていったんです」
有名なのは、大山さんが発する「ボク、ドラえもんです!」のセリフも当初の台本にはなく、未来からやって来たネコ型ロボットの登場のセリフとして彼女が思いついたという。テレ朝版「ドラえもん」は大ヒットし、言うまでもないが今も放送が継続されている。
「当時のテレビアニメは長くても3〜4年で終了するものでした。それが驚異的な長続きをしているわけですが、放送20年が過ぎた頃、スタッフはこの先の20年も続けたいという欲が出てきた。『サザエさん』(フジ)などは声優さんが亡くなっても一人ずつ交代するシステムですが、『ドラえもん』ではそれはしたくないねと話していたんです。やっぱり子供からすると、亡くなって交代というのはどうなんだろうと。ですから、長く続けるには、声優さんはじめスタッフも新陳代謝が必要だろうと……」
「まだやりたい!」
ちょうどその頃、大山さんに直腸がんが見つかった。彼女は「ドラえもん」以外の仕事をすべて降板して続投したものの、これを機に「ドラえもん」の降板を考えるようになる。スタッフに降板を申し出たが、彼女一人だけの降板は引き留められた。レギュラー声優陣の一斉交代が報じられたのは2004年11月のことだ。当時の新聞には大山さんのコメントが寄せられている。
《交代決定を受け入れた大山さんは「テレビ放送から二十五年がすぎ、ちょうどよい交代の時期。遠い未来までずっとずっとみんなに愛される『ドラえもん』であってほしい」と話している》(「東京新聞」04年11月22日)
ところが、当初、大山さんの反応は違ったという。
「最初にお話しさせていただいた時、大山さんは『もっと私できます。まだやりたい!』とおっしゃっていました。ただ、『他の声優さんはもちろん、僕を含め作画監督から音響から全員が辞めます。番組のためにお願いします』と説得して、納得いただきました」
初回放送から26年を経た05年3月18日、大山さんたちによる最終回「ドラえもん オールキャラ夢の大集合スペシャル!!」が放送される。平均視聴率は14・0%を叩き出した(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯)。
降板後の大山さんは、07年に音響芸術専門学校の校長に就任し、後進の育成に努めた。08年に脳梗塞を発症した後に校長を退任。12年にアルツハイマー型認知症との診断を受けた。夫の砂川啓介さんが大山さんの介護をしていたが、17年に砂川さんが死去。今年9月29日、大山さんは老衰のため都内の病院で息を引き取った。
「大山さんが亡くなって、レギュラー陣でご存命なのはしずかちゃん役の野村さんだけになってしまいました。亡くなったことが悲しいのはもちろんですが、声優さんたちが入れ替わり、今も『ドラえもん』が続いているのを見ると、あの時、判断して良かったのかなとも思います。もっとも、『ドラえもんはやっぱり大山さんがいい』って声を今でも聞くたびに、うれしいと思う反面で残念な気もするし、複雑な心境です」
デイリー新潮編集部