上野水香に聞く、モーリス・ベジャール作品の魅力~東京バレエ団創立60周年の節目に踊る『ボレロ』『ザ・カブキ』
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2024年8月30日、東京バレエ団は創立60周年を迎える。昨秋から展開している60周年記念シリーズもいよいよ後半に差し掛かり、8月31日(土)~9月1日(日)には新旧の名作を集めた珠玉のガラ公演〈ダイヤモンド・セレブレーション〉、10月には同団が世界に誇る傑作『ザ・カブキ』が上演される。
創立当初より世界を視野に収め、古典から現代まで多彩なレパートリーをもって国内外で精力的に活動してきた同団の歩みを振り返る際に、決して欠かすことができないのが振付家モーリス・ベジャールの存在である。20世紀の巨匠と言われるベジャールの作品が東京バレエ団で初上演されたのは1982年のこと。以来長きにわたって親交を深め、代表作『ボレロ』、オリジナル作品『ザ・カブキ』をはじめとする22の作品をレパートリーとして譲り受けることとなった。
ベジャールから直接の指導を受けたダンサーのひとりであり、現在は同団ゲスト・プリンシパルとして活躍する上野水香に、今回の記念公演で上演されるベジャール作品の魅力について聞いた。
■ 生身の自分そのものを舞台で晒す『ボレロ』
2004年に東京バレエ団へ入団して以来、上野水香が踊り続けてきたのが『ボレロ』だ。ベジャールがモーリス・ラヴェルの同名曲に振り付けた世紀の傑作で、赤い円卓上で“メロディ”を踊ることができるのは著作権保有者の厳しい審査にかなったダンサーのみ。生前のベジャールが日本人女性ダンサーで許可を与えたのは上野ただひとりである。
-- 2004年に東京バレエ団への移籍を決められた理由のひとつには、モーリス・ベジャールさんの存在があったそうですね。
はい。モーリス・ベジャールの作品をレパートリーに持っているのが日本では東京バレエ団だけであることは、移籍を決めた大きな理由でした。『ボレロ』をはじめ、『バクチⅢ』『ドン・ジョバンニ』など、ベジャールさんの作品にはいくつも踊ってみたいものがあって、とても憧れていたのです。
-- 入団されて程なく、『ボレロ』を踊ることになります。当時の思い出を少しうかがえますか?
入団して2日目に佐々木(忠次)さんから、「これを覚えていらっしゃい」とシルヴィ・ギエムの『ボレロ』のビデオを手渡されました。「あなたが踊った映像をベジャールさんに見せるから」と。今思えば、私が移籍するとなった時点から、佐々木さんは『ボレロ』をやらせたいと思ってくださっていたのでしょうね。一番憧れていた作品だったので、こんなに早くチャンスが巡ってくるなんて、びっくりしました。
憧れてただ観ていた頃は、「私ならこうする、きっと私にしか見せられないものがあるはず」と思っていたのですが、実際に踊り始めると、難しさに直面しました。やはり錚々たるダンサーが踊ってきて、皆さんが一番の理想というものをそこに掲げて見る作品ですから、とても厳しい。周りを取り囲む“リズム”のダンサーも、はじめのうちは皆先輩で、やりにくかったし怖かったですね。(笑)
『ボレロ』 photo: Shoko Matsuhashi
一方で、とても嬉しい思い出もありました。ブリュッセルのシルク・ロワイヤルで踊った時のことなのですが、公演後に皆とレストランでご飯を食べていたら、老夫婦が近づいてきて「さっきボレロを踊った人でしょう。自分たちはここで、色々なダンサーの『ボレロ』をたくさん観てきたけれど、あなたのは本当に素晴らしかった」とおっしゃってくださったんです。ブリュッセルは、ベジャールさんが率いていた20世紀バレエ団の元々の本拠地であり、脈々と『ボレロ』が踊られてきた街。長年ベジャール作品を観て、愛してきた方にそう言っていただけたことは、本当に嬉しかったです。20年も前ですから、そのご夫婦はもういらっしゃらないかもしれません。でも今のおふたりにまた会えるなら、ぜひ観ていただきたいです。そのくらい、この20年の間に変化がありました。
古典の中で最も多く踊ってきたのは『白鳥の湖』で、これも私のバレエ人生と共にある作品ですが、役に扮するわけではない『ボレロ』はより一層、演じる人そのものの表現となります。衣裳も装置も振付もシンプルで、シューズも履かない。生身の自分そのものを舞台で晒しているようなもので、だからこそ厳しさと面白さの両方があります。
-- 〈ダイヤモンド・セレブレーション〉での『ボレロ』上演に向けて、今どのような想いを抱いていらっしゃいますか?
10年前の50周年記念ガラで、シルヴィ・ギエムが『ボレロ』を踊っていたことを思い出します。昔からの憧れだったギエムと同じ場所に立つのだと思うと、とても感慨深いです。そしてあの時ギエムは、『ボレロ』1本に絞って踊っていました。私も、「上野水香 オン・ステージ」など最近の公演では数曲踊った後に『ボレロ』となることが続いていましたが、今回は『ボレロ』だけに集中することができます。
そしてやはり何よりも、2004年の入団時から20年間踊り続けてきた『ボレロ』は、私にとってバレエ団の思い出と結びついたモニュメンタルな作品なので、感謝の気持ちを込めて踊りたいです。
また今回はオーケストラの生演奏であることも、ひとつの課題ですね。これまでも何度か経験はあるのですが、実はとても難しいんです。前回は、指揮をしてくださった井田勝大さんと事前にたくさんのディスカッションをしました。まず音源と比べると、絶対音量が足りないんです。だから一人ひとりに最大限の音を出してもらうようお願いして、さらにテンポや一音一音の表現についても、細かくお伝えしていきました。深く理解してくださった井田さんのおかげで、その時は音とダンスが一体となった、まさに生演奏ならではの舞台を創ることができました。今回はロシアの指揮者の方と伺って、的確に伝えられるかなとドキドキしていますが、出来得る限りディスカッションして、良い化学反応を引き出せるようベストを尽くしたいと思っています。新しい挑戦で楽しみです。
■ ベジャール作品の中にある“東洋”の精神
-- モーリス・ベジャールは、上野さんから見てどのような振付家でしょうか?
もう偉大としか言いようがありません。ラッキーにも私は、モーリス・ベジャールさんとローラン・プティさんというフランスの偉大な振付家おふたりと仕事をさせていただきましたが、彼らがなぜ偉大かというと、彼らの振付そのものがひとつのジャンルになっているからです。クラシックバレエとも、モダンやコンテンポラリー、ジャズとも異なる、他でもない「ベジャール」というジャンルを創り出したのは、本当に素晴らしいことだと思います。
また大の親日家でいらしたベジャールさんは、日本のことを、日本人の我々よりももっと深く哲学的に理解されていらっしゃいました。『ザ・カブキ』はその上で創られた作品ですし、たとえば『ボレロ』や『春の祭典』といった他の作品であっても、東洋的なスピリットをお持ちのベジャールさんが創ったからか、私たちが踊ると欧米のダンサーとは異なる良さが不思議と出てくるのです。化学反応によって、ベジャール作品の精神が活かされてくる。これはすごいことで、東京バレエ団がベジャール作品をレパートリーとして持っていることの強みにも繋がっていると思います。
-- 上野さんは、ベジャールさんから直接指導を受けた最後の世代でもありますね。
直接の指導を受けたダンサーの中で、現在も現役で踊っているのはエリザベット・ロスさん、ジュリアン・ファヴローさんと私だけなのではないかと思います。今でも本番、真っ暗な中で踊り始める時に、目の前の赤いランプのところにベジャールさんがいるような感覚になります。そのくらい、1回のリハーサルが自分の中に濃密に残っていて、本当に宝物のような経験でしたね。
この特別な作品が、良い形で踊り継がれていってほしいと思います。ベジャールさんの思い描いていた『ボレロ』の姿が、その精神が、100年後も変わらずずっと残っていってほしい。彼と仕事をさせていただいた最後の世代として、そう願っています。
>(NEXT)10月には『ザ・カブキ』への出演も
■ 対極の技術の共存が見どころの『ザ・カブキ』
『ザ・カブキ』は、モーリス・ベジャールが東京バレエ団のために創作した作品である。歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』を題材に、タイムスリップした現代の青年が、主君を失った塩冶浪人のリーダー“由良之助”となって、仇討ちを果たすまでを描く。バレエと歌舞伎が類稀なる化学反応を生み出す本作は、世界中で高く評価され、1986年の初演以来15か国28都市で上演を重ねてきている。
『ザ・カブキ』Photo: Kiyonori Hasegawa
-- 『ザ・カブキ』は、どのような魅力がある作品ですか?
『ザ・カブキ』は、ベジャールさんの目を通した『仮名手本忠臣蔵』の世界です。あくまでバレエであり、モーリス・ベジャールのフィルターを通した“歌舞伎”であるという点が大きな個性となって、世界中で大好評を得てきました。東京バレエ団の宝ですね。
打掛や白塗りといった和のテイストがいっぱい入っているだけでなく、ベジャールさんの精神の中にある“日本”が作品にも宿っています。そこが海外、なかでもヨーロッパでは特に響くようで、皆様大興奮して見てくださるんです。ここまで“和”を徹したバレエは他になく、その点において、バレエをよくご存知のお客様にとっても新鮮な趣があるのだと思います。
--上野さんが演じられるのは、切腹とお家断絶を命じられた塩冶判官の妻“顔世御前”です。取り組むなかで、新鮮に感じたことや発見などはありますか?
まず踊りの面について。ベジャールさんは『ボレロ』を振り付けている時にも「クラシックバレエがベースにあるから、基礎を踏まえてきちんとステップを踏んでほしい」とおっしゃっていたのですが、全く同じことが『ザ・カブキ』にも言えます。私が演じる顔世の踊りにも、由良之助や他の人物の踊りにも、アカデミックなクラシックバレエをマスターした人こそが美しく踊れるパ(*動き)が、実はたくさん入っています。例えばポワントワークなども、正しいポジションで踊ってこそ効果が出る振付になっているんです。
ローラン・プティさんの振付のなかに、脚を一旦内に回してから(*アン・ドゥダン)、再び外に回す(*アン・ドゥオール)動きがあります。なぜそうするかというと、バレリーナの脚が美しく見えるアン・ドゥオールを強調するため。アン・ドゥオールだけを見せるのではなく、まずアン・ドゥダンしてから外に開くことで、その凄さを際立たせるのだそうです。このプティさんの言葉は強く印象に残っているのですが、実はこの原理は『ザ・カブキ』のベジャールさんの振付にも応用できるんですよ。
日本的なすり足の時は絶対に足をパラレルにするけれど、バレエのエシャッペの時はガチッと開いたラインにする。つまりクラシックのパが出てきた時はこれでもかと言うくらい正しいポジションでやるギャップが、驚きのメリハリを生むわけです。そこはヨーロッパのダンサーには出せない部分だろうとも思います。そして『ザ・カブキ』という作品の魅力にも直結しているので、私はこのギャップを活かすよう意識して踊ってきました。
次に役に関してお話しすると、顔世は耐え忍ぶ日本女性です。彼女が持っている桜の枝は最初の頃は満開で、彼女自身も「あらあら、なんか変な男の人がいるわ」みたいな感じでふわふわしたお姫様なのですが、それが段々と変化していきます。自分のご主人様を傷つけられたショックと復讐心を経験して、由良之助に「お願いだから仇を取って」と言う時の彼女は、ふわふわしていた頃とは別人のように成長しています。満開の桜も段々と散っていき、2回目に枝を持つ時はすでに花が減ってきていて、仇取りを促す時にはもう枯れ木になっています。満開から枯れ木に至るまでの感情表現や成長を短い踊りの中でいかに表現するか、枝を手に佇むだけで若さや悲しさを表していくにはどうすれば良いか。顔の表情や動きを用いるドラマチックなバレエとは違う表現方法が求められていて、大きなやりがいになっています。
先日、日本舞踊の人間国宝の方がバレエとコラボレーションされている舞台を観たのですが、その方の動きは「動かない」と言えるくらい最小限でじーっとしていて、でも最初のじーっと最後のじーっがちょっと違うんですよ! その“静”の表現を観た時に、「これだ、これが顔世には求められているのだ」とインスピレーションを受けました。言葉もない、動きもない、ただいるだけで、どれだけ人に何かを感じさせることができるかにかかっている。バレエでありながら静の表現でもあり、その全部ができてこそ、顔世は極められるのかもしれません。本当に奥深い役なのです。
初めて顔世を踊ったのは、2008年のツアー公演です。前回は確か2019年のウィーン公演でしたが、あの時も変化を感じました。今回はさらに色々と感じるものがあるのではないかと思っていて、自分でも楽しみです。
『ザ・カブキ』Photo: Kiyonori Hasegawa
-- ご出演される10月12日(土)の東京公演と10月18日(金)の高槻公演で、主役の由良之助を踊られるのは柄本弾さんですね。
柄本さん演じる現代の若者が(『仮名手本忠臣蔵』の世界に)タイムスリップして、由良之助となっていく話なのですが、顔世として彼に接する時は、“時代のプライド”みたいなものを出したいなと思っています。“違う時代から来た若い男性”に対して、“この時代にのみ生きている女性”という部分を重ねて表現できると、この『ザ・カブキ』のタイムスリップの効果がまた活きてくるのではないかと感じています。
-- 最後に改めて、公演への意気込みをお願いいたします。
私はいつも「これが最後かもしれない、これを逃して何がある」という気持ちで、常に舞台に臨んできました。今回も、60周年記念公演だからとか、自分が20年目だからとか、この年齢だからということではなく、これまで通り日々を大切に、平常心で踊っていきたいです。一つひとつの舞台を観に来てくださるお客様に対する感謝や、舞台に対する感謝といった純粋な気持ちを込めて、上演できたらと思っています。
取材・文=呉宮百合香 撮影=池上夢貢