連日の深夜残業をこなすワーカーホリック。ついたあだ名は「社畜の海野P」だったと話す海野優子さん。好きな仕事に没頭するも、出産を機にがんが発覚して、時間の流れは大きく変わり始めます。そして、新しい仕事の使命もみつけたと言います。(全3回中の1回)

【写真】社畜時代の海野優子さんから、車いす生活でメルカリに職場復帰した当時の写真 など(全12枚)

連日の残業やイベント参加でついたあだ名は「社畜の海野P」

出産後、離れ離れだった赤ちゃんと対面したときの海野さん

── もともとはWEBサイトのプロデューサーとして働いていたそうですね。当時は、かなりのワーカーホリックだったとか。

海野さん:女性向けサイト「ウートピ」を立ち上げ、プロデューサーとして7年ほど働きました。とにかく仕事が楽しくて、リモート制度があるのに、毎日出社して深夜まで働いたり、人脈作りでイベントに連日顔を出したり。あまりの仕事人間ぶりに、当時のあだ名は「社畜の海野P」でした(笑)。同世代に寄り添うコンテンツを目指していたので、みずから「社畜」キャラとして記事にも登場していました。

── 「社畜」キャラには、どんなメッセージが?

海野さん:周りにいる20~30代の働く女性にお話を伺うと、“貢献したい”という気持ちが強い人が比較的多いように感じていました。職場だけでなく、家庭でも、母や妻として、“みずからの役割をまっとうしたい”と頑張りすぎてしまいがち。そんな女性読者たちへのエールを込めて、みずから「社畜」と名乗っていたというのもあります。

オンもオフも全力投球だった20代

── “自分の役割をまっとうしたい”感覚、わかります。いきすぎると自分を追い込んでしまうこともあって、バランスをとるのがなかなか難しいですよね。

海野さん:それに生きがいを感じ、好きでやっているならいいと思うのですが、どこかで、“自分の価値を発揮しなくてはいけない”という呪縛もあるんじゃないかなという気がします。本当は、自分軸でいいのでしょうけれど、組織で働いていると、なかなかそれに気づけないですよね。

私自身、“秀でた能力があるわけでもない自分が、人並み以上の成果を出すには、人よりも努力しなくてはいけない”感覚がずっとあって、“仕事を頑張ること”が、自分のアイデンティティになっていました。それを周りにも求めてしまい、頑張らない人を見ると、“成長できる機会なのにもったいない!”と思っていたんです。ですが、同じチームのメンバーから、「海野さんの体育会系のやり方にはついていけません」と言われ、仕事に対する価値観やモチベーションは人それぞれ違うんだと学び、反省しました。

転職後に妊娠が判明「産休に入ったらがんも見つかって」

── その後、2018年にメルカリに転職されました。そのころに病気が発覚したそうですね。

海野さん: 研究開発組織のPR担当として転職した直後に妊娠が判明し、産休に入ったのですが、出産と同時にステージ4のがんが発覚。原発不明の「後腹膜腫瘍」と告げられました。治療に専念するため、子どもを乳児院に預け、1年間がんと闘い、奇跡的に復帰することができました。ただ、想定外のできごとでキャリアプランは崩れ去りました。それまで、“20代はがむしゃらに仕事を頑張り、30代前半で結婚して1人目を出産。30代後半でマネジメントを経験し、2人目を産み、40代である程度大きな事業と組織を任され、より責任のある仕事をしている”というプランを描いていたんです。

── 明確ですね。描いたプランが崩れてしまったことを、どう受け止めたのでしょう?

海野さん:いまだから気づくのですが、それが自分にとって心からやりたかったことというよりも、世間や親から認められる生き方を意識していた気がします。レールから外れるのが怖かったんでしょうね。ですから、病気になった当初は、“周りはどんどん成長していくのに、自分だけ取り残されてしまう”、“本来アサインされるべき仕事から外されてしまうのでは?”と、悔しい気持ちがありました。いま思えば、いろいろと望みすぎていたなと感じます。

── 治療から1年後、車いすで職場復帰されました。産休前と同じ部署、同じポジションのまま復帰されたそうですね。

海野さん:腫瘍の影響で左足が麻痺して、歩くことができなくなり、車いす生活になりましたが、私としては車いすというハンディがあるだけで、以前の自分と変わらないのだから、同じように働けると思っていたんですが…甘かったですね。

1年の闘病を経てメルカリに職場復帰を果たしたころの海野さん

車いすでの仕事に加え、乳児院から戻った娘の育児がスタートし、さらに足のリハビリや病気の治療で通院しながらの生活。強めの薬を飲んでいるので、副作用で眠気もあります。いま思えば、どう考えてもムリな状況ですが、どうしても仕事に復帰したかったんです。これまでのように成果が出せない自分を認めたくなくて、もがいていましたが、あるできごとで気持ちが大きく変わりました。

「私、いなくてもいいんじゃない?」と悟った

── どんなできごとだったのでしょう?

海野さん:とあるプロジェクトで、大学構内で記者会見をすることになったんです。本来、PR担当の私が率先して動かなくてはいけないのですが、ここで壁にぶつかりました。車いすで大学に行くまでの経路、構内はバリアフリー対応か、車いす用のトイレがあるか、エレベーターはどうかなど、一つひとつ確認して、事前に把握しておかなくてはいけません。これがかなり大変で…。とはいえ、ほかの人にお願いするのは気が引けます。スピード感が求められる部署だったため、だんだん周りが私を気づかって仕事を巻き取ってくれ、気づくと、プロジェクトは終わっていました。

そして、悟ったんです。「私、いなくていいんじゃない?」って。効率やスピードが重視される仕事では、障がいのない人のほうが生産性は高い。自分はここでは、もう通用しないんだと、挫折感を味わいました。そんなとき、人事から「障がい者雇用のチームで働かないか」と声をかけてもらったんです。恥ずかしながら、それまで障がい者雇用の存在も、メルカリにそんなチームがあることも知りませんでした。ですが、健常者から障がい者になり、どちらの立場も経験した自分だからこそ、できることがきっとあるはずだと思い、異動を決めました。

── “自分だからできること”に目を向けて、前に進む。ポジティブな海野さんらしいなと感じます。

海野さん:障がい者雇用のチームでは、聴覚障がいと精神障がいのあるメンバーのマネジメントや、パラアスリートのサポート業務などを担当しました。障がい者にとっての理想的なライフワークスタイルの実現に取り組むなかで、さまざま課題が見えてきました。ほとんどの企業で、組織にとって多様性が不可欠だというわりに、障がいは女性活躍やLGBTQの人たちに比べて、どこか腫れ物に触るような扱いだったり、組織のなかでもお荷物になりがちだったりと、ネガティブなイメージがあり、まだまだ壁を感じます。

── 2023年8月には、知的障がいのある作家のアートライセンスを利用したビジネスを展開するヘラルボニーに転職されました。どういう思いがあったのでしょうか。

海野さん:ヘラルボニーの「障がいのイメージを変えたい」というビジョンを見て、「これは自分の使命だな。私がやらなきゃ」と、胸にストンと落ちる感覚があったんです。健常者と障がい者との間に存在する“見えない壁”を経験した自分だからこそ、伝えられることがある。難しいミッションだからこそ、やりがいがありそうだと、ワクワクしました。目指しているのは、いろんな人にとって心地よい居場所がある社会。ヘラルボニーでは、「異彩を、放て。」というミッションを掲げているのですが、この“異彩”は、障がいのある人もそうではない人も、誰しもがちょっとずつ持っていると思うんです。

たとえば、この人がいると、なんだか雰囲気が明るくなって仕事がしやすくなるとか、のんびりしているけれど他の人と違う視点を持っていて発想がなんだかおもしろいとか、効率や成果で測れない、いろんな能力があって、どれもすごく大事ではないかと感じます。すべての人が自分の“異彩”を発揮できる社会になれば、みんなが生きやすくなるし、居場所があって安心できる。ハッピーで楽しい人生を送ることができるんじゃないかと思うんです。

PROFILE 海野優子さん

うみの・ゆうこ。1984年生まれ。理系の大学を卒業後、IT企業に就職。ザッパラスで女性向けウェブメディア「ウートピ」を立ち上げた後、メルカリに転職。2018年、34歳で出産直後、末期の原発不明がんが見つかる。治療の過程で車いす生活に。2023年より、福祉実験カンパニー・ヘラルボニーで働く。

取材・文/西尾英子 写真提供/海野優子