16年経っても「なぜ捕れなかったか分からない」 五輪で犯した世紀の落球、会議室の天井に透けた北京の空――野球・G.G.佐藤
「シン・オリンピックのミカタ」#59 連載「あのオリンピック選手は今」第2回前編
スポーツ文化・育成&総合ニュースサイト「THE ANSWER」はパリ五輪期間中、「シン・オリンピックのミカタ」と題した特集を連日展開。これまでの五輪で好評だった「オリンピックのミカタ」をスケールアップさせ、大のスポーツファンも、4年に一度だけスポーツを観る人も、五輪をもっと楽しみ、もっと学べる“見方”をさまざまな角度から伝えていく。「社会の縮図」とも言われるスポーツの魅力や価値が社会に根付き、スポーツの未来がより明るくなることを願って――。
今回は連載「あのオリンピック選手は今」。五輪はこれまで数々の名場面を生んできた。日本人の記憶に今も深く刻まれるメダル獲得の瞬間や名言の主人公となったアスリートたちは、その後どのようなキャリアを歩んできたのか。第2回はプロ野球・西武などで活躍し、2008年北京五輪に出場したG.G.佐藤氏。前後編で伝える前編では、3失策で一躍世間の注目を浴びたあの悲劇の裏側に迫る。(取材・文=THE ANSWER編集部・宮内 宏哉)
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「どうなっちゃってたんだろう……俺の思考回路。なぜ捕れなかったのか、本当に分かんないなあ。確かに、空は見づらかったですよ」
東京・広尾の会議室。グラブを構える仕草を見せたG.G.佐藤は、何もない天井を見上げながら呟く。脳内には、16年前の北京の空が鮮明に広がっていた。
2008年8月。今も野球ファンの語り草になっている3つのミスを犯した。
西武で5月の月間MVPを獲得するなど、当時は絶好調。「1ミリも考えていなかった」ジャパンの一員になった。脂が乗った29歳。完全に天狗だった。
「俺を選ばざるを得ないなって、それくらい調子こいてたんです(笑)。バカバカ打てましたし、あの当時もし選ばれないで負けていたら、それはそれで叩かれたんじゃないかな。
これだけ毎日一生懸命やっているんだから、オリンピックに行っても絶対ちゃんとできると思っていました。野球とそれだけ真剣に向き合っていたので」
自信満々に中国の地を踏んだが、実は代表活動初日からかすかな不安も抱えていた。
「オリンピックはレフトで行くぞ」。対面した星野仙一監督から第一声で告げられたが、本職は右翼手。泣く子も黙る闘将に、意見する度胸はない。
「はい!」。悪夢の落球へのカウントダウンが始まった。
歯車が狂った1つ目のエラー「マジで飛んでくんな」「捕れるわけねえ」
予選リーグは4勝3敗の4位。首位突破の韓国と決勝進出を懸けて激突した。「7番・左翼」で先発。負けられない日韓戦に、高揚感と不安が入り混じる。「決闘する感じでしたね」。普通の精神状態ではなかった。
歯車が狂ったのは4回の守備。左バッターが放った左翼線の打球の処理に向かったが、まさかのトンネル。切れていくボールに対処できなかった。「こんな簡単なボールが捕れないのに、難しいフライが捕れるわけねえじゃん」「マジで飛んでくんな」。動揺は大きかった。
マイナス思考に陥っていた8回の守備、更なる悲劇が襲った。2-4とリードを許し、これ以上の失点は避けたい展開。2死一塁から、左中間へ大飛球が飛んだ。
「俺か?」。中堅手の青木宣親が捕球することを願った。でも、フェンス際で追いついたのは自分。普段なら捕れたボールは、グラブからこぼれ落ちた。
「もう帰れないですよ、ベンチに。申し訳なさ過ぎて。星野さんをチラッと見たら、まさにデビルでした」
手痛い追加点を許した日本は2-6で敗戦。金メダルは夢と散った。
これだけミスをした自分が、3位決定戦で使われるはずがない。周囲の温かい声も、耳に入ってこなかった。「明日はゆっくり応援しよう」。眠れない夜を過ごした。
一夜明けの朝食会場。貼り出された米国戦のオーダーに、目を疑った。「9番・左翼」で名前が書かれていたからだ。
「血の気が引きましたね。やべえ、今日行くんだ俺って」
昨日の弱気な自分は嫌だ――。スイッチを入れた。「今日は何が何でも行くぞ!」。迎えた米国戦は、この気合が空回りしてしまう。
「どけ、中島!」から連日の落球 届かなかった藤川球児の言葉
青木の3ランなどで4-1とリードしていた3回、高々と上がった打球に対し、遊撃手・中島裕之が捕球態勢に入ったが、勢いよく前進してきたG.G.佐藤が声をかけて落下地点へ。平凡なフライだったが、ボールはグラブをかすめて芝生へ。2日連続、悪夢の落球になった。
「行かなきゃいいのに『どけ、中島!』と……。この辺りから記憶がありません。(3つ目のエラーは)スローモーションだったんですよ。交通事故に遭うとき走馬灯のようになるって言うじゃないですか。無音になって……捕れないみたいな」
思わずグラブをパカパカ。穴が空いているのではないかと本気で疑った。
実は準決勝の後、藤川球児が「明日、使われるよ」と教えてくれていた。星野監督と阪神で2年間を過ごし、ミスをした人間をすぐ使う闘将の性格を知っていたからこその言葉だった。
塞ぎこんだG.G.佐藤の耳には、届いていなかった。
「全然覚えてない。この前、教えてくれて初めて知ったんです」
もしこの言葉が届いていれば、精神状態も違ったはず。少なくとも3つ目のミスは生まれていなかったかもしれない。
日本は直後に先発・和田毅が同点3ランを浴びるなど流れを失い、4-8で敗戦。この大会はG.G.佐藤以外にも本調子でない選手が多かったが、「あまりにも俺が目立ち過ぎちゃった」と責任を背負う形になった。
日本へ戻る飛行機の中、目に飛び込んできたのは、自身を批判するスポーツ紙の強烈すぎる見出しだった。
(続く)
■G.G.佐藤 / G.G.Sato
1978年8月9日生まれ、千葉・市川市出身。本名は佐藤隆彦。中学時代、野村沙知代氏がオーナーだった「港東ムース」でプレー。野村克也氏とも出会う。桐蔭学園高から法大に進学。卒業後はMLBフィリーズ傘下で3年間プレーした。2003年ドラフト7位で西武入団。07年にレギュラーの座を掴む。08年北京五輪に出場するも、3失策で厳しいバッシングを浴びる。12年にはイタリアに渡ってプレー。ロッテを経て14年限りで引退。父が経営する測量会社「トラバース」に入社した。営業所長、副社長などを経験し、昨年独立。現役時代の公表は184センチ、98キロ。右投右打。
(THE ANSWER編集部・宮内 宏哉 / Hiroya Miyauchi)