2024年3月15日、野菜生産基地である温室の完工式に金正恩とともに出席した娘(写真:AFP=時事)

金正恩国務委員長の娘の存在感が大きなものになってきた。2022年11月にその存在が初めて公開されて以来、弾道ミサイル発射実験の視察や着工式で金正恩に同行する姿を北朝鮮メディアが報じている。彼女は、後継者候補なのか。北朝鮮内政分析で定評がある礒粼敦仁・慶應義塾大学教授に、謎に包まれた金正恩の娘について語ってもらった。

「嚮導」の偉大な方々


金正恩(キム・ジョンウン)国務委員長の娘の存在感は、ますます大きなものになってきた。朝鮮労働党機関紙『労働新聞』の2024年3月16日付に、「嚮導(きょうどう)の偉大な方々」という表現が出てきたのである。「嚮導」は日本語で聞きなれない言葉かもしれないが、「領導」と似たニュアンスで、北朝鮮では最高指導者か朝鮮労働党が主語となって使われてきた。今回の注目点は「嚮導の偉大な方々」と複数形になっていることである。

「先進的」な「世界屈指の野菜生産基地」である温室の完工式に金正恩が出席したことを伝える記事で、「嚮導の偉大な方々が、党と政府、軍部の幹部とともに江東(カンドン)総合温室をご覧になった」と書かれていた。この表現だと、「偉大な方々」は「党と政府、軍部の幹部」より上位の特別な人物ということになる。しかも、複数形ということは、金正恩だけではないということで、該当するのは娘しかいない。

金正恩の動静を伝える北朝鮮メディアは今年1月以降、「お子さま」が主語となる文を記事中で使うようになった。以前は「敬愛する金正恩同志が愛するお子さまとともに……を視察された」などと表現されていたのだが、これが「尊敬するお子さまが同行された」という独立した一文に変わったのである。内閣総理ら他の随行幹部の名はその後に列挙されている。

そもそも自らの家族を国民に見せる金正恩の姿勢は父とは明確に異なっている。金正日(キム・ジョンイル)時代にも妹の金慶喜(キム・ギョンヒ)や、その夫である張成沢(チャン・ソンテク)が重用されたものの、北朝鮮メディアで動静が報じられるのは党や政府の高位に就いている人物としてであり、金正日の親族だからではなかった。金日成(キム・イルソン)の妻である金正淑(キム・ジョンスク)も同様で、抗日パルチザン闘争を夫と共に戦った英雄と位置付けられていた。

このような特徴は、金正恩が2011年末に権力を継承した直後から見られた。2012年7月に北朝鮮の国営メディアが金正恩の現地指導に同行する若い女性の姿を伝えるようになり、同月末に夫人の李雪主(リ・ソルチュ)だということが明かされたのである。平壌市内にできた綾羅(ルンラ)人民遊園地の完工式に金正恩が夫人同伴で出席したというニュースで、金正恩の腕を取って一緒に歩く李雪主の写真が世界に配信された。

李雪主はその後もたびたび金正恩の現地指導などに同行し、腕を組む仲むつまじい姿をアピールした。2018年3月の金正恩訪中に同行した際や、9月に韓国大統領の文在寅(ムン・ジェイン)が平壌を訪問した際には、昼食会や晩餐会で相手方の夫人と席を並べるなどファーストレディとしての役割を務めた。しかも『労働新聞』は、敬称を付して「尊敬する李雪主夫人」が夫人外交を担う様子を報じていた。金正恩の母である高容姫(コ・ヨンヒ)が北朝鮮メディアに全く出てこなかったのとは好対照をなしている。

「尊敬する」という修飾語の意味

そして、2022年11月には娘の存在が初めて公開された。新型の大陸間弾道ミサイル(ICBM)「火星17型」を試射した際、金正恩と一緒に姿を見せたのである。北朝鮮メディアは「愛するお子さま」も試射に立ち会ったと報じた。

少女はその後もさまざまな場に金正恩とともに姿を見せるようになった。2023年2月には朝鮮人民軍創建75周年を祝う閲兵式(軍事パレード)を観覧する雛壇に現われた。呼び方は当初の「愛するお子さま」に加えて「尊貴であられるお子さま」が使われていたが、この閲兵式からは「尊敬するお子さま」という呼び方も多用されるようになった。「尊敬する」という修飾語は、後継者として登場した時期の金正恩のほか、既に述べたとおり李雪主にも使われた時期があったが、現在は娘にしか用いられていない。金正恩の妹である金与正(キム・ヨジョン)には使われたことすらない。

少女の姿は軍事関連のイベントのみならず、道路の着工式や養鶏場への視察といった経済関連行事で金正恩と一緒に見られるようになった。父娘のツーショット写真も次々に公開されている。写真の構図は、金正恩が後継者として表舞台に出てきた頃に金正日と写ったものとそっくりである。

まだ若い娘の存在が公開された理由は不明だが、何らかの政治的意図があるのは確実である。金正恩時代に入ってから、北朝鮮では「白頭の血統」に加えて「革命のバトン」という言葉も頻繁に使われるようになった。何らかの形で後継問題に関係していると考えるのが自然な解釈であろう。

ただし、金正恩の家族構成の全体像は明かされていないことに注意しなければならない。韓国の情報機関である国家情報院は、少女の姿が公開された際に第2子であり長子は男、第3子は性別不詳であるとの見方を発表したが、未確認情報に過ぎず、そのままキャリーすべきではない。

娘の名前は「ジュエ」なのか?

娘の名前と関連しては、アメリカの元プロバスケットボール選手のデニス・ロッドマンの証言が注目された。金正恩に招かれて2013年9月に訪朝した際、「キム・ジュエ(김주애)」という名前の娘に会ったというものである。ただ朝鮮語を解さないロッドマンがその名を正確に聞き取れたかどうかもわからない。

ここでは、日本のメディアが金正恩の名を長らく「金正雲(김정운)」と表記していたことが想起される。2009年秋に『毎日新聞』が入手した内部文書によって、カタカナで表記すると同じ「キム・ジョンウン」ながらハングル表記は異なる김정은であることが判明した。その後、キム・ジョンウンの名前が 2010年9月に初めて公式報道に出てきた際、ようやく「金正恩」であることが判明したのである。

金正恩の母親コ・ヨンヒも長らく「高英姫(고영희)」だと考えられてきた。しかし、平壌で墓参した複数の証言者によると墓石に刻まれた2文字目は「영」ではなく、発音の異なる「용」だという。これに依拠して相当する漢字を当てれば「高容姫」である。とりわけ北朝鮮情勢をめぐっては、確認された情報と未確認情報を区別して考えることが必須であることは言うまでもない。

(礒粼 敦仁 : 慶應義塾大学教授)