「アドラーの本は難しい」と思われる意外な背景
日本でもアドラーの心理学は人気がありますが、意外とアドラー自身のことはあまり知られていません(写真:Ushico / PIXTA)
「自らを受け入れ、運命を切り拓け」「何を与えられて生まれてきたかではなく、与えられたものをどう生かすかが大事なのだ」「怒るのは『他人を支配したい』から」――。これらはオーストリアの精神科医で、フロイトやユングと並ぶ「心理学三大巨頭」の一人、アルフレッド・アドラーの言葉です。
古くから欧米での人気は高く、『人を動かす』のカーネギーや『7つの習慣』のコヴィーらに影響を与え、「自己啓発の祖」とも言われます。
日本でもアドラーの心理学は人気がありますが、意外とアドラー自身のことはあまり知られていません。
そこで岩井俊憲さんの解説で、アドラーの生涯について振り返っていきます(本稿は、岩井さんの編訳『超訳 アドラーの言葉』の一部を抜粋したものです)。
「劣等感のアドラー」
アルフレッド・アドラー(1870年ー1937年)は、オーストリアの精神科医・心理学者です。言わずと知れた「アドラー心理学」の創始者であり、フロイト、ユングと並ぶ「心理学三大巨頭」の一人とされます。
2013年に発売されベストセラーとなった『嫌われる勇気』(岸見一郎・古賀史健著、ダイヤモンド社)でその存在を知ったという人も多いでしょう。
それまでの日本では、フロイトやユングに比べて知名度も低く、知る人ぞ知るといった存在でした。
1985年にアドラーを知って以来、公開講座やビジネス研修でアドラー心理学を伝えてきた私としては、ベストセラーになった際に「やっと日本でも」との思いを抱いたものです。
アドラーは、オーストリア・ウィーン郊外でユダヤ人の家系に生まれました。幼い頃は体が弱く、くる病や喘息などを患い、病気との戦いの連続だったといいます。
また小柄であったため、一般的な身長と健康な体をもつ1歳4カ月上の兄・ジークムントに対する劣等感があったといいます。このような言葉を残しています。
「私の早期の記憶の1つは、くる病のために包帯をした私がベンチに座っていて、私の向かいに健康な兄が座っているという場面である。兄は楽々と走ったり飛び跳ねたり動きまわったりできるのに、私はどんな運動をするにも緊張と努力が必要であった」
こうした自身の病の経験があったからでしょう。1888年、アドラーは医師を目指しウィーン大学医学部に進学します。
アドラーのよく知られた功績の1つに、「劣等感」があります。「劣等感のアドラー」という言われ方をすることもあります。
この劣等感とは、「私は兄より背が低くて嫌だ」とか「体が弱いのがつらい」などのように、誰かと比べて、主観的に「自分は劣っている」と感じることです。
一方で「劣等性」は、客観的な属性で、「背が低い」「喘息を患っている」という欠点や欠損があるだけです。その「劣等性」を人と比べて、主観的に「自分は劣っている」と感じると「劣等感」になります。
しかしながら、この「劣等感」をアドラーは「悪くない」と言いきります。大事なのは、「劣等感をどう生かすか」だからです。
(画像:『超訳 アドラーの言葉』を参照し東洋経済作成)
「劣等感があるからこそ、成長できる。糧にして努力できる」と考えたのです。まさにアドラー自身が、自分の体の弱さからくる劣等感がありながらも、それを糧にして医師になっています。
フロイトとの関係性
アドラーは眼科、のちに内科、そして精神科と分野を移行させていきます。
そして、フロイトと出会います。ただ、ここでよく誤解されていることがあります。アドラーがフロイトの「弟子」だという説です。
アドラーがフロイトの弟子であったことはなく、1902年にフロイトの招きに応じる形で9年間、共同研究に携わっていたと表現するほうが適切です。こんなエピソードが残っています。
ニューヨークのホテルで、欲求段階説でも有名なアブラハム・マズローとアドラーが夕食をとっていたときのことです。マズローがアドラーに「フロイトのもとで修業をしていたこと」について、それとなく質問してみました。
すると、アドラーはとても怒り、「自分は一度だってフロイトの生徒であったことも、弟子であったことも、支持者であったこともない」と大声を出して反論したそうです。
似た出来事は、アドラーの60歳の誕生日の日にもありました。
彼がウィーン市から名誉市民の称号が与えられる公の席でウィーン市長がアドラーを「フロイトの功労のある弟子」と紹介したのです。アドラーは深く傷つき辱められた思いを抱いたようです。
普段は激怒するようなこともなく、温厚で寛容だったと彼の弟子や子どもたちによって語られているアドラーです。したがって「フロイトの弟子」扱いは、彼にとって怒りの導火線になっていたことがわかります。
さて、1911年にフロイトと袂を分かつことになったアドラーですが、その後、精神科医療の世界にもとどまらず、ウィーンのカフェテリアで人に会い、議論を重ねる市井の人として心理学を深めていきます。
アドラー心理学は、心を病んだ人ではなく、健康な人、普通の人のための心理学として発展を遂げていくのです。
さらには、医師として従軍した第1次世界大戦も大きな分岐点となります。
1916年、アドラーは軍医として大戦争を経験します。そこで大勢の負傷者やトラウマに苦しむ人たちと接することで、人間と人間とが手をとり合い協力することの大切さを感じたアドラーは、人間を育てること、教育に関心をもつのです。
子どもの教育についても研究し、子どもが自己の能力を発揮し、社会的な関係を築くためには、適切な教育と支援が必要であると主張しました。 患者をもつ精神科医というよりは教育者になり、「教育」に重要感をもって取り組んでいったのです。
アドラーがわかりづらい理由
やがてアドラーは、オーストリアだけでなく、ドイツやイギリスなどヨーロッパ各地で講演をするようになります。さらには、1926年、初のアメリカ講演旅行に出かけます。
そこで人気を博したアドラーは、1930年代のアメリカにおいて最も謝礼の高い講演家となり、お抱え運転手付きでアメリカ各地を飛びまわることになったのです。
アドラーの本は、この時期に英語で出版されています。しかしながら、これがとてもわかりにくいのです。
なぜなら、56歳まで英語と無縁の生活を送っていたアドラーにとっては、英語がネイティブでなかったからです。
アメリカでスターダムにのし上がり、1930年代にはアメリカで生活することが多くなったアドラーは、講演に忙殺される日々を送ります。
本を執筆する時間も惜しまれるワーカホリック状態での唯一の趣味は、ハリウッド映画。そんな日々の中で、日常会話では不自由しないくらいの英語のレベルにはなっていました。
しかし、講演や執筆となると話は別です。自分がドイツ語なまりの英語で講演した内容をもとに出版しようとするも、原稿をじっくりと推敲する語学力も時間もなく、フリーランスの編集者に委ねるしかありませんでした。
こうしたことに、アドラーの本はわかりづらい、アドラー心理学は難しいと思われることの一端があるのです。
67年の生涯を閉じた
ちなみに、1927年にアメリカでW・B・ウルフによって訳され出版された 『人間知の心理学』(日本では『人間知の心理学』と『性格の心理学』として2分冊)という本があります。アドラーの講演をもとに出版されたものです。
この本を出版したグリーンバーグ出版社は、哲学的、あるいは科学的な本というより自助(セルフヘルプ)本として売り出したため、難解な本にもかかわらず瞬く間に10万部以上を売りました。1920年代を通じてのフロイトの関連本すべての売り上げを上回るほどになったといいます。
このような人生を送っていたアドラーでしたが、その終わりは突然訪れます。
1937年5月、ヨーロッパへ講演旅行に向かったアドラーは、イギリス・スコットランドのホテルから散歩に出たところ、心臓発作のために路上で倒れます。そのまま、救急車の中で亡くなりました。 67歳でした。
(岩井 俊憲 : ヒューマン・ギルド代表)