安倍文殊院(写真: ogurisu_Q / PIXTA)

NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたることになりそうだ。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第12回は、遅咲きながら政権の中枢で活躍した安倍晴明のエピソードを紹介する。

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道兼はどのように花山天皇を陥れたか?

寛和の変(かんなのへん)――。

寛和2年6月23日(986年7月31日)に起きた、この歴史的出来事を知る人は、今回の大河ドラマ「光る君へ」で取り上げられるまでは、それほど多くなかったことだろう。いわば、「花山天皇の出家プロジェクト」である。

計画したのは、おそらく、当時右大臣だった藤原兼家だろうとみられている。兼家は、何としてでも自分の孫を天皇にしたいと考えていた。そのためには花山天皇には一刻も早く、退位してもらう必要があり、出家させることを思いついたらしい。

実行犯は兼家の4男にあたる藤原道兼だ。一緒に出家すると見せかけて、花山天皇を寺へと連れ出して、剃髪を見届けたうえで、自分だけ抜け出している。

『大鏡』によると、道兼は退出時にこんな言い訳をしたのだという。

「ちょっと失礼して、出家前のこの姿を父の兼家に見せてから、天皇とご一緒に出家する事情も伝えたうえで、必ず戻って来ましょう」

(罷り出でて、おとどにも、変はらぬ姿、今一度見え、かくと案内申して、必ず参り侍らむ)

ここで騙されたことに気づいた花山天皇。「私をだましたな」(「珍をばはかるなりけり」)と悔しがるが、後の祭りであった。

「寛和の変」を予期した安倍晴明

結果的に、兼家の陰謀計画は成功に終わったが、危うい場面もあったらしい。

同じく『大鏡』からの逸話で、道兼が花山天皇を寺へと連れ出そうとしていたときのことだ。

花山天皇が女御、忯子からの手紙を忘れてしまったことに気づく。忯子は花山天皇が最も愛したとされる女御だが、17歳の若さで早世。失意の底にいる花山天皇を見て、道兼は出家に誘ったとされている。

そんな忯子からの手紙を「日ごろ破り残して御身も放たず御覧じける」、つまり、普段から肌身離さず持ち歩いて、事あるごとに読んでいたのに、宮中に忘れてきてしまった。

花山天皇が「しばし」といい、取りに戻ろうとするが、道兼は容赦なかった。「どうしてこのように、未練がましく、お思いになりなさったのですか」(いかにかくは思し召しならせおはしましぬるぞ)と説き伏せて、寺へと強引に連れて行くこととなった。

もし、花山天皇が翻意して出家をとりやめてしまえば、台無しになる計画だ。まさに綱渡り状態であり、失敗する可能性もあった。

それにもかかわらず、花山天皇の退位をいち早く予見した男がいた。陰陽師の安倍晴明である。

道兼が花山天皇を連れ出したときに、土御門通を東に向かって行き、ちょうど安倍晴明の家の前を通った。そのとき晴明はまだ、家の前を天皇が通っていることに気づいていなかったが、察知するものがあったらしい。手を激しく叩いて、こう命じたという。

「帝がご退位なさると思われる天の異変があったが、すでに成ってしまったようだな。宮中に参内して報告しに行こう。車の準備をしろ」

このときに安倍晴明は「取り急ぎ、式神一人、参内して、状況を見て参れ」とも言っている。「式神」とは目に見えない精霊の一種のことで、式神を通じて、安倍晴明は天皇が家の前を通った事実を知ったのだという。

その後、花山天皇が本当に退位したことを知った周囲は、安倍晴明の言動にさらに注目したことだろう。

40歳の時点では「優秀な学生」にすぎなかった

安倍晴明といえば、若い美男子の陰陽師としてフィクションではしばしば描かれるが、実際には、最も活躍したのは60代後半から80代の頃だった。


安倍晴明公像(写真: williams / PIXTA)

それ以前の安倍晴明の様子がわかる記録はそれほど多くはないが、天徳4(960)年には、陰陽寮(おんようりょう)という、卜占、天文、暦、時刻などをつかさどる役所に勤務していたようだ。

身分としては「天文得業生」であり、気候の変異から吉凶を察知する「天文道」を学びながら、天文の観測を行っては博士に報告する、いわば特待生だった。

このとき晴明はすでに40歳だったにもかかわらず、優秀とはいえ学生にすぎなかったということである。まさか、自分が政治の行く末を左右する存在になるなど、思いもしなかったことだろう。

それから10年以上の月日が流れて、52歳〜54歳の頃には天文博士となり、「天文密奏(てんもんみっそう)」という重要な職務を担当している。天文密奏とは、異常な天文現象が観測された場合に、観測記録と占星術による解釈を天皇に報告することをいう。

さらに安倍晴明は医療に携わることもあった。花山天皇が頭痛に悩まされたときは、どんな手を尽くしてもよくならないので、安倍晴明が頼りにされたようだ。晴明は、こんなふうに説明したという。

「前世のドクロが岩の狭間に落ちて挟まっています。雨が降ると岩が膨張してドクロを圧迫するので、現世でこのように痛まれるのでしょう。療治で治るはずはありません。ドクロを取り出して広い場所に置けば、おそらく平癒されるのではないでしょうか」

場所を詳しく聞いた御所の使者が、吉野山に行って探索してみたところ、確かにドクロが岩の間に挟まっていた。それを取り除いたら、花山天皇の頭痛も治ったという。

そのほか『小右記』によると、藤原道長や三条天皇も、安倍晴明を呼び出しては「招魂祭」という儀式を執り行わせて、生き霊などの物の怪を取り払うことで、病から逃れようとしていたようだ。

ドクロを取り出すことで花山天皇の頭痛が緩解したのも、精神的な効果が大きかったと思われる。

たまたま吉野山でドクロが岩山に挟まっているのを目にして、安倍晴明はそれをいつか使おうと思って覚えていたのではないか……とするのは、うがった見方だろうか。

一条天皇の病も治癒させて昇進

そんな安倍晴明の活躍がピークを迎えたのは、前述したように、60代以降のこと。ちょうど一条天皇が即位し、藤原兼家が摂政となり、やがて兼家の5男にあたる藤原道長が、権力を手中に収めようという頃のことだ。

一条天皇は体が弱かったため、永祚元(989)年には、正月に消化器のトラブルで病に伏せた。このときも安倍晴明が祈祷で治癒させたという。その功績から、正暦4(993)年には「正五位上」(しょうごいのじょう)へ昇進を果たす。

遅咲きながらも、政権の中枢で影響力を発揮した安倍晴明。45歳も年下だった藤原道長の信頼を勝ち取ることにも成功し、権力者をサポートし続けることとなった。


【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
斎藤英喜『安倍晴明 陰陽の達者なり』(ミネルヴァ書房)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)

(真山 知幸 : 著述家)