夕暮れが美しい大阪の繁華街(写真:でじたるらぶ/PIXTA)

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「Minamiこども教室」での学習を終え、夜のミナミを歩いて家路につく子どもたち(写真:筆者提供)

外国にルーツを持ち、厳しい状況に置かれている子どもたちを支援する「Minamiこども教室」(大阪市中央区)の様子を追った、ジャーナリスト・玉置太郎氏の著書『移民の子どもの隣に座る 大阪・ミナミの「教室」から』より一部を抜粋し、3回にわたってお届けしています。本稿は3回目です(前編、中編はこちら)。

「普通」の時間になれば

メイはその後しばらくウカイさん宅に泊めてもらい、自宅へ戻った6月末、晩ご飯を食べに再び我が家へ来た。その日は親友のマナミも一緒だった。マナミも緊張していたそうだが、メイとは逆にいつにも増して口数が多く、にぎやかな食卓となった。

それからメイは週1回のペースで、うちへ晩ご飯を食べに来るようになった。食卓での話題は尽きなかった。

「部活動の試合で勝てた」「テストの結果やばかった」「同級生の女子と微妙」「隣のクラスのあの男子が気になる」と、高校生らしいおしゃべりを聞かせてくれた。

メイの誕生日にはマナミも一緒にケーキでお祝いし、クリスマスには心斎橋のイタリアンへ少しおめかしして出かけた。年末には2人がうちへ泊まりに来て、一緒に年越しを過ごした。

私が仕事で帰れない日でも、メイは妻と2人で楽しくやっていた。妻とはSNSの連絡先を交換し、私相手の時よりも気軽に連絡を取り合っていて、ちょっとうらやましかった。一度、メイから「ピアスが外せなくなった」と妻にメールがあり、夜にメイの家へピアスを外しにいったことさえあった。

そうして一緒に食卓を囲みながら私が考えていたのは、この時間がメイにとっての「普通」の時間になればいいな、ということだった。

メイの話からは常に、「普通」の高校生にはない悩みが見え隠れした。

奨学金の申請書類をすべて自分でそろえなければならない。生活保護費から日々の支出を考えなければならない。介護施設に移ってリハビリをする父親のケアをどうするか。今の家で一人で暮らし続けられるのか――。

17歳が独りで抱えるには重すぎる悩みが、メイの頭の中には常にあった。

だから、うちに来て、3人で食卓を囲んでいる瞬間は、ただ心を開いて重荷を下ろし、自由に思いを打ち明けられる時間にしてほしかった。それは「普通」の高校生なら意識もしないような、当たり前の日常だったはずだ。

互いに楽しいひととき

メイにはそんな「普通」の時間が必要なんじゃないか、という控えめな臆測が、私にはあった。その臆測は、私自身の経験からきている。

私は母親と妹弟3人とのシングルマザー家庭に育った。そして私が20歳の冬、母親はがんで亡くなった。葬儀の手配、役所の手続き、銀行口座の整理、学費免除の申請……、悲嘆に暮れる暇もないほど、やるべき事が目の前に山積した。

生活が急変するなかで支えになったのは、幼いころから通っていたプロテスタント教会のコミュニティだった。特に中学生のころから世話になってきた牧師夫妻は、私たちきょうだいを親身になって支えてくれた。

夫妻の家で、私はしばしば夕食をごちそうになった。その食卓は私にとって、胸の中で膨らむ不安を言葉にし、ただ話を聞いてもらうことで、自分は独りではないと実感できる、かけがえのない「普通」の時間だった。

もちろんメイと私の置かれた状況は全く違うし、メイが本当にそれを求めていたのかもわからない。ただ、自分にできることは、それくらいしかなかった。「メイに何かしてあげたい」という意気込みが私にはあった。

けれど、そんな私の意気込みは、いつの間にか流れて消えていた。

私にとっても、妻にとっても、メイが週に一度うちに来ることは純粋な楽しみになっていたからだ。うれしい報告も、たまりにたまった愚痴も、冗談交じりに明るく語るメイと接していると、私も妻もただ楽しかった。

当時ブームになり始めていた漫画「鬼滅の刃」の存在も、流行語「ぴえん」や「JK(女子高校生)」の正しい使い方も、現役女子高校生のメイが私たち中年夫婦に教えてくれた。

メイは食卓で話しながら、時折こらえきれずに涙をこぼした。それでもじきに気を持ち直して笑顔を見せようとする姿に、こちらが励まされていた。

高校卒業後の進路

父親が自宅に戻れないまま、メイは高校3年生になり、受験の年を迎えた。「助産師になる」という夢の実現に向け、まずは看護師の資格を取るための専門学校を目標にすえた。

Minamiこども教室で受験支援の中心を担ったのは、高校の化学教師を退職してボランティアに加わったタナカさんだった。皮肉のきいた冗談は多いが、子どもへの愛情にあふれたおじさんだ。

メイの苦手教科は化学と数学。高3レベルの理系科目を教えられるスタッフは限られ、タナカさんがつきっきりで課題をみた。

3年生の夏になると志望校も固まった。私も新聞記者の端くれなので、メイの小論文や志望理由書を添削したり、面接の練習に付き合ったりした。志望理由書には「将来、助産師になりたいと考えているからです」としっかり書いた。

第1志望の看護専門学校の推薦入試は、早くも秋に始まった。

面接試験の直後は「全然うまく答えられなかった」と落ち込んでいたメイだが、小論文と面接の1次試験、そして最終の2次試験を無事に終えた。

結果発表の日、メイから電話があった。

第一声、「合格した!」と報告があり、妻と2人で喜び合った。

合格した専門学校には寮や奨学金があり、4年学んで卒業した後、しばらくは系列の病院で看護師として働くことになる。うまくいけばメイは20代半ばで助産師学校に入り、夢をかなえることができる。

受験勉強から解放されたメイは、ボランティアとしてMinamiこども教室へ顔を出すようになった。小学生の隣に座って宿題を教え、子どもの自宅への見送りも担った。

その姿を、スタッフたちは娘や孫を愛でるように見守った。教室出身の子どもがボランティアとして戻ってくるのは初めてのことだった。

学習支援をする側にまわったメイは「今まで教えてもらうことに慣れきってたけど、わかりやすく教えるのって難しいねんなあ。自分の教えてることが合ってるんか不安になったら、その子も不安にしてしまうし」と言う。

特に、ある女の子の姿が心に残ったという。教室でも口数が少なく、物静かな小学6年の女の子だ。

「すごい黙々と丁寧に宿題をやる子なんやけど、どうしても要領が悪いねん。それが小学生のころの自分を見てるみたいで。もっと力を抜いてもいいのになあって思いながら教えてた」

そうやって自らと重ねながら、気持ちをわかろうとしてくれる先輩がいることは、その女の子にとっても、良い出会いになったはずだ。

「やっぱり居場所かな。心の居場所」

メイは専門学校の入学と同時に、学校の寮へ入ることになった。6歳で移り住んで以来初めて、島之内を出て暮らすことになったのだ。

島之内を「ほわほわしてて、居心地がいい」と評していたメイだ。名残は尽きないようだった。

私は1つの区切りだと思い、メイがうちへ夕食に来た日、少し改まったインタビューをさせてもらった。居間の座卓に向き合い、レコーダーを回す。

メイは少し照れつつ、一つひとつ言葉を選びながら、父親が倒れてからの2年間をふり返ってくれた。

「私がしんどい時に周りにいろんな大人がおってくれて、それぞれの場面で助けてくれた。勉強のことはタナカ先生、生活のことはウカイ先生、役所とかややこしいことはキム先生、いろんな愚痴はタローの家で聞いてもらった。

そうやって、いろんな大人がおってくれたから、ひとりで悩まずに済んだ。それがいいな、って。ひとりの人だけに頼りきるんじゃなくて、いっぱいいてくれることで、一人ひとりに少しずつ、あんまり遠慮せずに相談ができるやん。

相談できるから、ひとりで抱え込まんで済む。そのおかげで心の余裕ができたと思う」

「教室はメイにとってどういう場所?」というありきたりな質問を、私は投げかけた。メイには高校1年の時にも同じ質問をしたことがあった。当時の答えは「自分ががんばりたいと思った時、応援してくれる人がいて、勇気づけられる場所」だった。


それから2年。少し考えてメイは言った。

「やっぱり居場所かな。心の居場所」

飾らない、真摯な言葉だった。

「島之内からは離れるけど、これからもみんなにいろいろ相談したいし、教室にはつながっていきたいと思ってるねん。

私のこれからの姿も見てほしいし、看護師になったら、みんなの役に立てるかもしれへんし」

そして、この間の成長を感じさせる一言を口にした。

「私のような子がおったら、自分の経験がちょっとは生かせるんちゃうかなと思ってる。しんどい思いしてる子って意外にたくさんいるやろ。見えてないだけで。

やっぱりJKはJKらしくおってほしいよね。能天気で、ふわふわしたJKライフを送れるよう、楽しいことを知ってほしい。楽しいことがあったらがんばれるから。

私の場合は、周りにいろんな大人がおってくれて、友達にも恵まれたから、いろいろあったけど、そこまで落ち込まずにJKライフもエンジョイできた。いつかは、そうやってしんどい思いをしてる子に関わっていけたらなって。それが、私の今の目標かな」

旅立ち

4月1日、メイは住み慣れた島之内を離れ、看護専門学校の寮に入った。

前々日からの引っ越し作業には、ウカイさんや私を含めた教室スタッフらが応援に駆けつけた。なかなか物を捨てられないメイに断捨離を促しながら、何とか大型バン1台に荷物を詰め切った。

荷入れの際、染み1つない寮の1人部屋に初めて足を踏み入れたメイは、心底うれしそうだった。島之内のマンションでは違和感のなかった古びた衣装ケースが、真新しい部屋に来るとやけに場違いに映った。

そのギャップこそが、メイの踏み出した「新生活」を象徴しているように、私には思えた。(おわり)

【本記事の前編、中編はこちら】

(玉置 太郎 : ジャーナリスト)