野球人生を変えた名将の言動(13)

掛布雅之が語る吉田義男 中編

(前編:若き日の掛布雅之が驚き 阪神の監督になった吉田義男が実践した「攻める守り」は芸術品>>)

 ミスタータイガース・掛布雅之氏に聞く吉田義男監督とのエピソード。その中編では、阪神がリーグ優勝と球団初の日本一を達成した1985年のチーム、吉田監督と岡田彰布監督との共通点などを聞いた。


1985年、日本一になったあとに掛布(左)に声をかける吉田監督photo by Sankei Visual

【日本一になった1985年の阪神は"守りのチーム"】

――吉田監督が2回目の監督に就任された1年目(1985年)、リーグ優勝と日本一を果たした阪神はとにかく打線が強力でした。同年に三冠王に輝いたランディ・バースさん、掛布さん、岡田彰布さんのクリーンナップをはじめ、1番打者の真弓明信さんも34本塁打、84打点とインパクトがありました。

掛布雅之(以下:掛布) チーム本塁打数が219本でリーグ断トツだったので「200発打線」がどうしてもクローズアップされるのですが、あの時の阪神は"守りのチーム"でした。

――同年の日本シリーズ(阪神vs西武)に出場した石毛宏典さんに当時の阪神の印象をお聞きした時も、「打線はもともと警戒していたが、守りもよかったのが印象的だった」と話していました。

掛布 石毛をはじめ、西武の守備はすばらしかったのですが、阪神も守備には自信がありました。なので、「いい勝負ができるかもしれない」というイメージを持ってシリーズに臨めました(阪神が4勝2敗で日本一に)。それと、おそらく広岡達朗さん(当時の西武監督)は阪神に対して、「守れないチーム」と思っていたのではないかと。

 確かに防御率は4点台(リーグ4位の4.16)でしたし、点はよく取るけど、取られるチームでもありました。でも、10対9でも、1対0でも、「1点差を守る野球」という点では一緒ですよね。阪神はそれができていたんです。戦い方のベースになっていたのは、先ほど(前編で)お話しした"攻める守り"。守りでリズムを作って攻撃につなげていく野球です。

 それと、吉田監督が徹底していたこととして、打たれたリリーフのピッチャーを翌日の試合ですぐに投げさせていました。「気持ちの部分でも攻めていけ」ということですね。

【吉田監督と岡田監督の共通点】

――抑えれば嫌なイメージをすぐに払拭できますし、リリーフのピッチャーには名誉挽回のチャンスをすぐに与えていたのですね。

掛布 自分で決着をつけさせるわけです。そういう部分は、今の岡田監督と似ているところがありますね。岡田監督の昨シーズンの野球もそうですし、1回目に監督をしていた時(2005年〜2008年)もそうですが、守りを重視しているところなど、吉田監督と共通している部分が多々あると思います。

――岡田監督とは、継投のタイミングなども共通する部分はありましたか?

掛布 ありますね。吉田監督がピッチャーを交代するタイミングはとてつもなく慎重ですが、その反面、大胆さもありました。ただ、間違うことはなかったような気がします。福間納さんというオールマイティーなカードがあったのも大きかったなと。

 福間さんは1985年、58試合に登板しているのですが、中継ぎをメインとしながら先発登板もあり(同年は4試合に先発)、イニングまたぎもしていました。影のMVPは福間さんだと僕は思っていましたよ。試合の中盤でリズムを作り、山本和行さん、中西清起のダブルストッパーにつないでいましたから。

――クローザーがふたりいたことも大きかったですね。

掛布 中西はプロ2年目で、あのバックスクリーン3連発を打った試合(※1)で初めてセーブを挙げたのですが、福間さんが二者連続で本塁打を打たれて1点差に迫られた後、中西を登板させたんですよ。二者連続で三振を奪うなど見事に三者凡退におさえたのですが、思い切った継投だったなと。

 このようなピッチャーの起用法は、昨年の日本シリーズで岡田監督が湯浅京己を登板させた時の起用法(※2)とちょっと似ているところがありますね。大胆であり、計算された繊細さも持ち合わせている感じでしょうか。

(※1)1985年4月17日の甲子園での阪神vs巨人戦で、巨人の先発・槙原寛己氏からバース氏、掛布氏、岡田氏が三者連続でバックッスクリーン付近に本塁打を放った。

(※2)2023年11月1日に行なわれた阪神vsオリックスの日本シリーズ第4戦。3−3で迎えた8回表二死一、三塁の場面で湯浅を起用。一軍での登板は6月15日のオリックス戦以来だったが、中川圭太を1球で打ち取り、ピンチを脱した。

――ちなみに、1985年はポジションと打順がほとんど固定されていましたが、その点も今の阪神と共通していますね。

掛布 当時は2番・センターと8番・キャッチャー以外は、ほとんど代えられることがありませんでしたね。それと、僕はスリーボールから「待て」のサインが出たことがありません。もっと言えば、すべての打席でサインが出たことがありません。

 吉田監督は、「スリーツーから打つストライクも、スリーボールから打つストライクも一緒だ」と言うんです。なので、スリーボールになった時に投げてくるだろう一番甘い真っすぐを打って構わないと。「待て」とか「打て」とかサインを出さなくても、4番として状況判断をしてくれるだろうと、信頼してくれていることを感じましたね。

 後ろを打つオカ(岡田氏の愛称)の状態がよければ、無理に打たずに出塁を考える時もありましたし、そうでなければ長打を狙いにいくことも。前を打つランディ(・バース)を含め、前後のバッターの状態を考えながら、打席の中でいろいろと仕掛けることを意識していました。

【ひとつ前の監督、安藤統男氏の功績】

――責任感が生まれる一方で、重圧はすごかったでしょうね。

掛布 責任感はものすごく感じていましたし、1985年は一番しんどいシーズンでした。でも、吉田監督が選手たちに任せてくれたおかげでリーグ優勝・日本一を達成することができましたし、すばらしいチームメイトがいたからこそ乗り越えられたと思います。

 ただ、1985年のリーグ優勝・日本一の土台になったという意味では、それまで阪神の監督を務められていた安藤統男監督(1982年〜1984年)がやってこられた野球も忘れてはいけないと思っているんです。安藤監督は中長期的なチーム作りを考えていて、ランディ(・バース)を連れてきたのも安藤監督ですし、おそらく1985年や1986年頃に優勝を狙えるようなビジョンを描いていたと思います。

――安藤監督と吉田監督の野球の違いは?

掛布 安藤監督の野球は本当にオーソドックスで、吉田監督がやる野球と似ています。吉田監督のもとでコーチをやられていましたが、現役の時も一緒にやられているわけですから、その影響もあるのかもしれません。なので、安藤監督から吉田監督に代わられた時に「野球が変わった」という感覚はありませんでした。

 安藤監督が土台作りから始め、吉田監督が1985年に仕上げたということですね。一番残念なのは、1986年に連覇ができなかったことです。当時は"勝てるチーム"でしたからね。

――掛布さんが死球による右手首骨折で、シーズン序盤に離脱したことが響きましたね。
 
掛布 春先に自分が骨折したこともそうですが、エース級の存在だった池田親興が肩の故障で長期離脱したことも大きな要因だったと思います。それと、前年の課題だったピッチャー陣の補強もほとんどできないままでしたから......。1986年は、吉田監督も悔いが残るシーズンだったと思います。

(後編:「バックスクリーン3連発」、阪神を日本一に導いた「走塁」と「犠打」をを振り返る>>)

【プロフィール】
掛布雅之(かけふ・まさゆき)

1955年5月9日、千葉県生まれ。習志野高校を卒業後、1974年にドラフト6位で阪神に入団。本塁打王3回、打点王1回、ベストナイン7回、ダイヤモンドグラブ賞6回、オールスターゲーム10年連続出場などの成績を残した。球団初の日本一になった1985年は不動の四番打者として活躍。1988年に現役を引退した後は、阪神のGM付育成&打撃コーディネーター、2軍監督、オーナー付シニア・エグゼクティブ・アドバイザー、HANSHIN LEGEND TELLERなどを歴任。野球解説者や評論家、YouTubeなど活躍の場を広げている。