元千葉ロッテ・大嶺祐太が歩むセカンドキャリア「野球界に残らなかったことが『正解だった』と思えるように」
連載◆『元アスリート、今メシ屋』
第2回:大嶺祐太(元千葉ロッテほか)
2006年のドラフト会議。2球団競合の末、大嶺祐太は千葉ロッテマリーンズに入団した。16年間のプロ野球生活で積み上げた勝ち星は29。故郷・石垣島の八重山商工時代から将来を嘱望されていた逸材にとっては、その才能に見合う数字ではなかったのかもしれない。
引退から1年。35歳になった大嶺は、東京・門前仲町で飲食店を経営する。常に痛みと隣り合わせだった現役時代について、そしてアスリートの誰もが直面するセカンドキャリアについて、話を聞いた。
千葉ロッテマリーンズ時代の大嶺 photo by Sankei Visual
「エースと4番は育てようとして、育つものではない。出会うものだ」と語ったのは、名将・野村克也だ。球団幹部には「毎年、エース候補を指名してほしい」と頼んだという。
1998年のドラフト会議で1位指名を受けて西武ライオンズ(現・埼玉西武)のエースになった松坂大輔、2004年のドラフト1位で北海道日本ハムファイターズに入団したダルビッシュ有がその代表だろう。彼らは高校を卒業すると同時にプロ野球の世界に飛び込み、1年目から勝利を積み上げてメジャーリーガーへと成長していった。
1988年6月、沖縄県石垣市で生まれた大嶺祐太は、彼らに続いて日本球界のエースになることを期待された逸材だった。2006年春のセンバツに八重山商工(沖縄)を率いて出場し、2試合で17奪三振の好投を見せた。同年の夏の甲子園では、大会記録(※当時)となる151キロのストレートを投げている。184センチの長身、長いリーチを生かしたピッチングで、いわゆる"ハンカチ世代"の高校生ドラフトの目玉として騒がれた。
大嶺は当時をこう振り返る。
「自分では注目されていると思いませんでしたし、地元の石垣ではプロ野球を見る機会もなかったので、ドラフトで指名されること、プロ野球選手になるということに現実味がありませんでした」
プロ野球に入るのなら福岡ソフトバンクホークスしかない――大嶺には強い思いがあった。
しかし、ドラフト会議ではさまざまなドラマが生まれる。千葉ロッテマリーンズのボビー・バレンタイン監督が大嶺のピッチングにほれ込み、1位指名に名乗りを上げた。抽選の末、意中のホークスではなく、マリーンズが交渉権を獲得することになった。
「もちろん、ロッテが嫌いだったわけではありません。ただ、高校時代に肩を痛めてボールを投げられない時期があったんですけど、そういう時にもソフトバンクのスカウトが見守ってくれました。だから、『ホークスに行きたい』と公言していました。半年くらいはボールを投げることも、肩より上に手を上げる動作も禁じられていて、何度もくじけそうになりましたが、そんな時期を乗り越えられたのはそのスカウトの方のおかげです」
はじめは「1年間の浪人」を考えていた大嶺だったが、野球部の監督など学校関係者と協議したうえでマリーンズ入団を選んだ。
【このままではプロでやっていけない】今では150キロを超える投手は珍しくないが、2000年代後半にはまだ貴重な存在だった。ボールの速さなら負けない――そんな自信はすぐに打ち砕かれた。2007年4月30日のライオンズ戦のことだ。
「二軍で投げている時には『自分のまっすぐはプロでも通用する!』と思っていました。でも、一軍初先発のマウンドで(アレックス・)カブレラ(元西武ライオンズなど)にホームランを打たれたんですよ。二軍なら打ち取れたはずのボールが右中間スタンドに入るのを見て、プロの怖さを感じました。『コントロールを磨いて、変化球を身につけないとプロではやっていけないぞ』と痛感しました」
プロ2年目の2008年にプロ初勝利。2009年に5勝したものの、2010年は3勝に終わっている。大器が未完のままだったのには理由がある。
「20代の前半はひじ、そのあとに肩も痛くなって......」
大嶺にとって、プロ野球選手としての16年は痛みとの戦いでもあった。
「プロに入った時は大丈夫だったんです。でも、自分には1年間ずっと野球をするという経験がなかったので、2月のキャンプ前の自主トレから投げ始めて、いつも夏以降には痛みを感じていました。疲れがたまると、ひじが痛くなる」
プロ野球の各チームは、1年間で143試合を戦う。ローテーション投手ならば20試合以上は先発マウンドに上がることが求められる。だが、大嶺がその責任をまっとうできたのは2015年だけ。この年は23試合に先発して8勝7敗、防御率3・17、投球回数は133回3分の1。これが大嶺にとってのキャリアハイだった。
2015年には8勝をあげ、今後の飛躍が期待された photo by Sankei Visual
大嶺にとっての転機は2018年。春季キャンプ中に右ひじの腱が切れる音がしたため、登板を回避。そのシーズンは一軍で一度も投げることができなかった。
「すぐに病院で検査してもらったのですが、手術の必要はないと言われました。その後もずっと痛みがあって、満足に投げることができず......シーズンオフにまた検査してもらった時に『これはダメだ、手術しないと』と言われました。『この1年間はなんだったんだ......早く手術をしておけば......』という後悔はあります」
2019年1月にトミー・ジョン(側副靭帯再建)手術を受けて、全治12カ月と診断された。当然、この間は全力で投げることはできない。
「ユニフォームを脱いでからプロ野球人生を振り返った時、頭に浮かぶのは手術のこと、その後のリハビリですね。球団には十分な時間を与えてもらいましたし、自分にとっては本当に意味のある1年間だったと思います」
育成契約を結んでリハビリに励んだ大嶺は2020年8月に支配下登録され、すぐに一軍登板を果たした。翌2021年は8試合に登板し、1勝1敗、防御率4・09。しかし、シーズンオフに戦力外通告を受けた。
【なぜ16年間もプロでプレーできたのか】右ひじの手術・リハビリの間に、大嶺は何を思ったのか。
「それまでが最悪だったので、手術をすることが決まってからは吹っ切れたというか、『ひじさえ治れば、また前のように投げられる』という、自信みたいなものがありました。それまでは、日によって気持ちが上がったり下がったりしていたんですけど、リハビリの間にそういうことがなくなりました」
対戦相手を気にすることなく自分と向き合うことで、大嶺の何かが変わった。
「手術前は、まわりの期待に応えられていないという気持ちがありました。『ドラ1なのに......』とか思っていました。でも、そういうことを気にせずに、しっかりと準備をすることだけを心がけました」
2021年12月、育成選手として中日ドラゴンズに入団。二軍で11試合に登板したものの、一軍での登板はなし。10月に戦力外と告げられ、ユニフォームを脱いだ。
プロ16年間の通算成績は、129試合に登板(85先発)、29勝35敗、1ホールド、防御率4・72。
「プロに入る時、こんなに長い期間、野球をやれると考えていませんでした。正直、成績も十分ではなかったのに、どうして16年間もプロでやれたのか。それは、いろいろな人に助けてもらったおかげだと思います」
プロ野球という世界で、大嶺はその才能を開花させることはできなかった。エースになることを期待された男はこの16年間をどう振り返るのか。
「ストレートだけでは通用しないと気づいてから、いろいろな工夫をしました。でも、自分の場合は、その日、マウンドに上がってみないとどうなるかわからなかった。調子のいい時は打たれないけど、そうじゃない時は崩れてしまう」
コーチに「いいバッターでも3割しか打てないんだから思い切って投げろ」と言われても「その3割の中に絶対に俺が入ってる」と思い込んでしまう。
「自信を持ってマウンドに上がっても、1本ヒットを打たれたらマイナスな気持ちになることが多かったですね。順調に抑えていても、急に不安になったり......。丁寧に丁寧に投げることだけを考えていました。ただ、現役の最後のほうは、やるべきことをやればいいと思えるようになりました」
多少コースが甘くてもいいから強いボールを投げようと思えたのは、30歳を過ぎてからだ。
「気づくのがちょっと遅かったかな?」と大嶺は笑う。
【野球との縁は切っても切れない】15年間在籍したマリーンズを離れて1年間プレーしたドラゴンズで気づいたこともたくさんあった。
「名古屋で野球との区切りをつけようという思いもありました。最後まで、野球をやり切って、ここでダメなら野球界から離れようという気持ちがありました。
日本には12球団しかないけど、それぞれの球団に個性というか色があることを知りました。もしロッテだけだったら気づかなかったでしょうね。いい社会勉強ができました。こっちでいいとされることが、一方ではダメということもたくさんありましたから」
ドラゴンズで戦力外を通告された時、大嶺は働き場所をプロ野球に求めなかった。
「ロッテを離れる時に球団から職員として誘っていただきましたが、それをお断りして中日に行ったという経緯もあります。引退を決めて『もう野球と関わらなくてもいい』とほっとした部分もあって。
一方で、石垣の野球の後輩が引退を記念したイベントをしてくれたんですが、その時に野球との縁は切っても切れないと強く思いました。でも、仕事となれば別ですね」
引退から1年が過ぎた。今、大嶺は東京の下町、門前仲町で「創作ダイニング HA−LY 爬竜船」を経営している。
「子どもの頃から大家族で育ち、いつも賑やかに食卓を囲んでいました。そんな雰囲気が好きで、以前から飲食店をやってみたいなと思っていました」
経営する店舗では、大嶺自身も厨房やホールに立つ
開店から約半年あまり、大嶺はスタッフとともに慣れないサービス業に全力を注いでいる。
「スタッフのスキルも少しずつ上がり、できることが増えてきました。まだまだではありますけど、いい食材をできるだけ安く仕入れて、おいしい料理を提供して、お客さまに楽しんでいただければと思っています。注文から食事をお出しするまでの時間も短縮できてきて、いろいろなところで成長を実感しています」
時にはミスをすることもある。そんな場面で、プロ野球での経験が生きると大嶺は言う。
「もちろん、ミスをしたら謝るのは当たり前なんですが、それを素早く、さりげなく、できるかどうか。僕がさっと『すみません』と言えるのは、18歳でロッテに入団して、先輩や球団関係者の皆さんにいろいろなことを教えてもらったから。これが自然にできるのは、お世話になった方々のおかげですね」
店内には大嶺さんが使用していたグラブも
元チームメイトらからのお祝いも所狭しと並ぶ
大嶺はアパレル関係の仕事も手掛ける。ユニセックスで着用できるシンプルなデザインを中心に、Tシャツ、パーカー、CAPなど身近なアイテムをオリジナルでリリースしている。ブランド名は「LUCIA」だ。
「たまたま、妻の友人にアパレル関係の方がいて、話を聞きにいきました。今は、その世界をよく知っている人に会うようにしています」
野球とはまったく違う世界で生きる人との会話は楽しい、と大嶺は笑顔を見せる。
「専門用語もわからないし、難しいことばかりですけどね。自分の中につくりたいもののイメージがあって、それを一緒に形にしてくれる人を探していたんですけど、1年くらいかかってやっと出会いました。『こういうのをつくって』と言えば、それをつくってくれます。実際に商品にすることや、それを売ることにはまだまだハードルがありますけど、少しずつ形にしていければと考えています。
僕がつくるもの、イメージするものに共感してくれる人がいて、それを買ってくれるようになればうれしい。どうやってつくるか、どうやって知ってもらうか、どうやって売るか、勉強することはたくさんあります」
大嶺は今、35歳。セカンドキャリアは始まったばかりだ。
「野球界に残らなかったことが、5年後10年後に、『正解だったね』と思えるように、事業も、生活面も含めて、しっかり確立したい。妻も『好きなことをやって』と背中を押してくれています。
新しいことにチャレンジすることで人間的に成長すると思う。まだ35歳だし、もし失敗することがあっても得るものがあるはずです。結果を恐れることなく、トライ&エラーでやっていきます」
【Profile】大嶺祐太
1988年6月16日生まれ。沖縄県石垣市出身。
地元・石垣島の八重山商工高時代には、エースとして2006年の春・夏の甲子園に連続出場を果たす。同年のドラフト会議で千葉ロッテマリーンズ・ソフトバンクホークスに1位指名され、千葉ロッテに入団。2015年には8勝をあげるも、その後は怪我にも苦しみ、2度の戦力外通告(1度目は育成選手として再契約)を経て、2021年オフに中日ドラゴンズと育成選手契約。翌2022年シーズン終了後に現役引退。プロ野球通算129試合に登板(85先発)、29勝35敗、防御率4・72。