村井満×ジーコ対談 「異端のチェアマン」が「神様」と親友になったキッカケ
新春スペシャル対談
村井満×ジーコ(前編)
前Jリーグチェアマンで、現在は日本バドミントン協会会長を務める村井満氏。そして、元ブラジル代表として30年前のJリーグ開幕を大いに盛り上げ、日本代表監督退任後も毎年のように来日しているジーコ氏。まったく出自の異なる両者だが、それぞれのホームである浦和とリオデジャネイロで酒を酌み交わすほどの親友である。
昨年12月5日に発売された宇都宮徹壱・著『異端のチェアマン 村井満、Jリーグ再建の真実』(集英社インターナショナル)は、8年間に及んだ村井チェアマン時代のJリーグを丹念に振り返りながら、これまで明らかになっていなかった新事実を掘り起こしていく内容となっている。そして本書が、Jリーグ開幕から30周年を迎えた2023年に発売されたことを受けて、村井&ジーコ両氏による対談企画が実現した。
今回、この豪華な対談を3回にわたってお届けする。本稿はその第1回。両者の知られざる出会いとブラジルを旅した時の思い出、そして1993年のJリーグ開幕時のそれぞれのエピソードについて語っていただいた。懐かしさと意外性が入り混じった、村井氏とジーコ氏による言葉のパス交換に、さっそく耳を傾けてみることにしよう。
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村井満氏とジーコ氏の対談がついに実現した photo by Koreeda Ukyo
── ジーコさん、村井さん、今日はよろしくお願いします。さっそくですが、おふたりはいつ以来の再会となるのでしょうか?
ジーコ 昨年の5月ですよね。一緒にホテルニューオータニで食事をしたのが最後だったかな?
村井 実は年に一度くらいのペースで、ジーコさんとは会っているんですよ。ただしコロナの時は、2年くらい会えませんでしたが。コロナ前に浦和の中華料理屋で、奥さんのサンドラさんと私の家内も交えて食事した時、シーズン移行の話になったのを覚えていますか?
ジーコ たしか「なぜ日本はヨーロッパのシーズンに合わせないのか?」と聞いたような。
村井 そうです。それで私は「日本は1月と2月は雪が降るからだけど、ブラジルだって日本と同じシーズンじゃないですか」と逆に質問したんですよ。そうしたらジーコさんは「1月と2月のブラジルは暑くてサッカーなんかできないんだよ」って。お互い大笑いしたことがありました(笑)。まだACLがヨーロッパのシーズンに移行する前の話です。
── 初めてジーコさんに会った時のことは覚えていますか?
村井 私がチェアマンになってから、Jリーグアウォーズのような式典でご挨拶させていただいたのが最初だったと思います。ただし「非公式」ということでいうと、私がリクルートに勤めていた時でしたね。
ちょうどジーコさんが『ジーコのリーダー論』という本を出版されて、その記念講演会がリクルートのホールで開催されたんです。その後、ジーコさんとリクルートの取締役の会食会があったんですが、役員でもない私はそこに紛れ込んで、一緒に写真に写っているんです(笑)。
ジーコ あの本が出たのは1993年でしたね。
村井 そうです。講演会が行なわれたのが、アメリカでワールドカップが開催された1994年。実はこの年、オフサイドのルールが変わったんですよ。それについてジーコさんが「プレーに関与しなかったらオフサイドとはならない」って、箸置きを使いながら解説していたことを覚えています。
ジーコ おそらくブラジルvs.オランダの試合で、ブランコのFKが決まったシーンを再現しようとしたんだと思います。キックの瞬間、ロマーリオが走り込んで、うまく身体を反らしてゴールが決まったシーンでしたね。
── 1994年のワールドカップということは、ジーコさんが鹿島アントラーズを引退された直後ということになりますね。たしかこの年のファーストステージ、6月15日のジュビロ磐田戦がJリーグのラストマッチだったと思いますが。
ジーコ Jリーグの最後の公式戦はその試合だったと思いますが、日本でのラストマッチはその年のオールスター(7月23日)。この試合でフル出場してから、ブラジルに帰国しました。
【飛行機事故に遭ったシャペコエンセの弔問にジーコも同行】── その後もジーコさんは、日本代表監督、そして鹿島のテクニカルディレクターやクラブアドバイザーなど、日本サッカー界とのつながりは今に続いています。そんななか、チェアマン時代の村井さんとの関係性が密になっていたのは、どのタイミングだったのでしょうか?
ジーコ 私が鹿島のテクニカルディレクターに就任した2018年には、すでに親密になっていましたね。この年に鹿島はACLで初優勝するのですが、当時の村井チェアマンからはさまざまなサポートをしていただきました。
村井 よく覚えています。決勝の相手はイランのペルセポリスFC。カシマサッカースタジアムでのホームは2-0で快勝して、完全アウェーとなった第2戦はスコアレスドローだったんですよね。
ジーコ 2018年という年は鹿島だけでなく、Jリーグ全体が熱を帯び始めたように記憶しています。ヴィッセル神戸にアンドレス・イニエスタが加入したのも、たしかこの年のシーズン途中でしたよね?
この年のワールドカップに出場した日本代表は、メンバーの3分の1くらいが国内組でしたが、今ではヨーロッパでプレーする選手だけでスタメンを組めるようになりました。そうして考えると、日本サッカー全体にとっても、大きな転換期だったのかもしれません。
村井 Jリーグの経営という観点から言うと、DAZNとの契約が成立したのが2017年で、翌2018年からグーッと投資モードに入っていきました。まさにそういうタイミングで、私とジーコさんの距離感も近くなっていったんですが、そのきっかけとなったのが2016年11月。ブラジルのシャペコエンセというクラブが、飛行機事故で多数の犠牲者を出すという悲劇がありました。
── コパ・スダメリカーナの決勝に進出したシャペコエンセの選手とスタッフを乗せたチャーター便が、コロンビアの山中に墜落した事故ですね? 日本でも大きく報じられていました。
村井 それで私は、どうしてもシャペコエンセを弔問して、会長にお悔やみを申し上げたかった。けれどもブラジルには、まったくコネクションがなかったんです。そうしたらジーコさんが「一緒に行ってあげるよ」って言ってくれたんですよ。
── これ以上ない、心強いガイド役ですね!
村井 それでふたりして国内線で移動したんですけれど、VIPラウンジではなく普通の待合室で飛行機を待っていたら、次から次へと現地の人たちがジーコさんとの2ショット写真をねだってくるんですよ。それで私がカメラマン役を買って出たんですが(笑)、どんな時でもファンサービスを欠かさないジーコさんの姿を見て「この人は本当にプロなんだな」とあらためて思いました。
ジーコ 2017年の年末にも、私が主催するチャリティマッチに、わざわざ30時間くらいかけてリオまで来てくれましたよね。村井さんはとんぼ返りで帰国されましたが、実は2年後に私も同じことをやっているんですよ。
村井 2年後というと2019年ですね?
ジーコ その年の年末もリオでチャリティマッチを開催したんですが、2020年の元日に鹿島と神戸による天皇杯決勝があったんです。勝っていればよかったんですが、負けてしまったので、どっと疲れた気分でブラジルに帰国することになりました。村井さんはチャリティマッチを楽しんで帰国したから、同じ30時間のフライトでも私ほど疲れなかったと思います(笑)。
【1993年5月15日の開幕戦はどちらもテレビ観戦】── 今年、Jリーグは30周年を迎えました。ジーコさんといえば、名古屋グランパスとの開幕戦でハットトリックを決めたことで知られていますが、Jリーグ開幕はその前日の1993年5月15日。国立競技場で開催されたヴェルディ川崎vs.横浜マリノスが開幕戦でした。ジーコさんはテレビ中継をご覧になったのでしょうか?
ジーコ 次の日に大事な試合を控えていましたが、もちろんテレビで観戦していました。日本のサッカー界のなかでも強豪で知られる2クラブ同士の対戦ですからね。私にとっても非常に刺激的に感じられましたし、盛り上げ方もすばらしかった。ここから日本サッカーの新しい時代がスタートする、ということが強く感じられました。
村井 あの開幕戦、私も自宅でテレビ観戦でした。どうしても国立のスタンドで観戦したくて、100枚くらい応募ハガキを出したんだけど、1枚も当たらなくて(苦笑)。国立の芝生は、今と比べてそれほど青々としていなかったんだけど、スポットライトを浴びたカラフルなユニフォームが美しく映えて、「これから始まるんだ」という期待感がありましたよね。
── 翌日のジーコさんのハットトリックについては、いかがでしょう?
村井 もちろん覚えています。特に3点目。アルシンドが左サイドから折り返して、ジーコさんがボレーで決めましたよね?
それで思い出したんだけど、2017年にブラジルを訪れた時、その30年前にカンピオナート・ブラジレイロで優勝したフラメンゴの元メンバーが集まってパーティを開催していたんですよ。ジーコさんはもちろん、アルシンドやレオナルドもいて「この人たちはJリーグでもプレーしていたんだな」と思うと感慨深かったですね。
ジーコ 優勝した1987年のフラメンゴには、アルシンドやレオナルドのほかにも、ベベットやジョルジーニョなど、のちに鹿島でプレーする選手たちもいました。それから、横浜フリューゲルスでプレーしたジーニョも。さすがにアウダイールは、日本に来ませんでしたが(笑)。
村井 そういった世界的なプレーヤーたちが、プロリーグが始まったばかりの日本に来てくれたのが、今から30年前なんですよ。それは単にスター選手が集まっただけでなく、一緒に新しいリーグを作り上げる仲間が世界中から来てくれた。そういう意味で、いちファンだった私にとっても、とてもうれしく感じられたのを覚えています。
ジーコ 私も日本でプロリーグが始まるということで、少しでもサッカー文化が根づくことに貢献したいという思いから来日しました。ただし、鹿島アントラーズというクラブだけで、それができるわけではない。当時の親会社だった住友金属、スポンサー、それからホームタウンの行政や地域のみなさん、そうした方々の協力があればこそ、あれだけのムーブメントが生まれたんだと思っています。
(中編につづく)
◆村井満×ジーコ・中編>>「浦和と鹿島のタイトル数の差は何?」
【profile】
村井満(むらい・みつる)
1959年8月2日生まれ、埼玉県川越市出身。日本リクルートセンターに入社後、執行役員、リクルートエイブリック(現・リクルートエージェント)代表取締役社長、香港法人社長を経て2013年退任。日本プロサッカーリーグ理事を経て2014年より第5代Jリーグチェアマンに就任。4期8年にわたりチェアマンを務め、2022年3月退任。2023年6月より日本バドミントン協会会長。浦和レッズの熱心なサポーターとしても知られる。
ジーコ
1953年3月3日生まれ、ブラジル・リオデジャネイロ出身。1971年からフラメンゴでプレーし、1983年にウディネーゼへ移籍。契約問題で2年後に再びフラメンゴに戻り、1989年に一度は引退するも、1991年に住友金属(現・鹿島アントラーズ)のオファーを受けて1994年までプレー。ブラジル代表として72試合52得点を記録し、ワールドカップは1978年・1982年・1986年大会に出場。2002年から2006年まで日本代表監督を務める。