2023年7月のアジア選手権で6m97(追い風0.5m)を跳び、女子走幅跳の日本記録保持者となった秦澄美鈴(シバタ工業)。元々、走高跳の学生トップ選手だった彼女は、大学卒業後に走幅跳に専念し、社会人5年目のシーズンで大きな飛躍を遂げた。彼女が世界に飛び立つまでの紆余曲折、そして日本記録を17年ぶりに塗り替えた跳躍について聞いた。


秦にとって2023年は飛躍の一年となった photo by Murakami Shogo

女子走幅跳・秦澄美鈴インタビュー 前編

【小栗旬のドラマに影響を受け走高跳へ】

 日本女子跳躍界のアイコン的存在でもある秦澄美鈴は、大学卒業後に走幅跳に本格転向した異色の経歴を持つ。もとはロングジャンパー(走幅跳)ではなく、ハイジャンパー(走高跳)。加えて、小・中学校ではバスケットボール部に所属していた。

「ポジションはセンターでした。ゴール下のリバウンドを拾う役割が主なのですが、小さい頃から身長が高かったので競り負けることはなかったのかな。レイアップシュートのリズムは意外に跳躍種目に近いものがあって、その点では今に生きているのかもしれません」

 持ち前の高身長を武器にゴール下を守っていた彼女だが、大阪府立山本高校進学とともに陸上競技に転向し、走高跳を始めることに。そのきっかけは、当時大ヒットしたドラマ『花ざかりの君たちへ』で、小栗旬がハイジャンパーの高校生役を演じていたことだった。高校2年から本格的に走高跳に取り組み、3年時のインターハイで9位。わずか1年で高校トップクラスの成績を収めたのだから、元々"ジャンパー"としての素質があったのだろう。

 だが、武庫川女子大進学後は「普通の大学生活を送りたい」と競技を離れるつもりだった。しかし、クラス担任でもあった陸上部の伊東太郎監督(当時は跳躍コーチ)から熱心な誘いを受け、もう一度跳躍ピットに立つことを決めたという。

「伊東先生には『秦は三段跳で日本一を目指せる』と誘われたんです。ただ、私の中で響いたのは『日本一』という言葉だけで(笑)。三段跳をやるつもりはなく、このまま走高跳で日本一を目指そうと思っていました」

 そんな彼女がブレイクしたのが大学1年(2015年)の秋。関西学生種目別選手権で1m82をマークし、高校時代の自己記録を10cm更新。その年の日本ランキング2位、学生ランキング1位に相当する好記録だった。

 翌年の関西インカレを制し、日本インカレでは1m81を跳んで表彰台に上がった秦。一躍、学生トップクラスの選手に名を連ねるようになるも、その後はスランプに苦しんだという。大学1年で跳んだ自己記録を超えられず、年を追うごとにシーズンベストは1cmまた1cmと下がっていき、大学4年の記録は1m75に留まっていた。

「どうしたら高く跳べるのかわからない状態でした。走力や筋力も上がって成長を感じているのに、それが本番の結果につながらない。自分が努力しているのに記録に結びつかないのは、技術面の問題なのだろうけれど、具体的に『どこをどうしたらいいのか』という課題もわからない。助走も安定せず、精神的にもかなりつらい時期が続いていました」

 日本一に近づいたはずなのに、どんどん遠く離れていく。専門の走高跳でそんなもどかしさを抱いていた一方、着実に記録と成績を伸ばしていたのが走幅跳だった。本格的に走幅跳に出場し始めた大学1年時のシーズンベストは5m52。翌年には追い風参考記録ながら6m01を跳んで、関西学生種目別選手権で優勝。そして4年時の日本選手権で2位に入り、日本インカレで優勝を果たした。

「私はノリに乗り始めるとどんどん記録が伸びていくタイプだったので、決まった高さを越える高跳びより、自分のいけるところまで記録を伸ばす幅跳びのほうが性格的に向いていたみたいです。始めたばかりでまだまだ伸びしろは感じていましたし、何より跳んでいて楽しかったんですよね」

【大学卒業後に走幅跳に専念】

 上ではなく前へ――。走幅跳に自らの可能性を感じ始めた彼女は、大学卒業とともに軸足を移す。男子走幅跳元日本記録保持者の森長正樹氏をはじめ、数々の名ジャンパーを育て上げた太成学院高・元監督の坂井裕司氏に師事。伸び盛りの走幅跳に専念する一方で、陸上キャリアの原点でもある走高跳を手放すことに未練はなかったのだろうか。

「未練がなかった、というより、そこにあまり価値を感じていなかったというか...もちろん日本一になりたくてずっとやってきたのですが、日本選手権で入賞すらできなくて『もう高跳びは無理かもな』って若干あきらめていたところもありました。すごく迷ったのですが、今しんどいと思っているものより、『これからどれだけ伸びるんだろう』ってワクワク感のある幅跳びのほうがいいんじゃないかって思ったんです」

 そうして本格的にロングジャンパーとしてのキャリアを歩み始めた秦。坂井氏のもとで踏み切りの基礎から学び直し、社会人1年目(2019年)の日本選手権で初優勝を遂げ「日本一」の座を手にした。ちょうど同年にドーハ世界選手権が開催され、そこで初めて「世界」を目指す気持ちが芽生える。

「大学生の頃に世界陸上を見ていても、自分が出ることはまったく想像できなくて。ただ、ロンドン大会(2017年)あたりから同世代の人たちが出始めて『みんなこういう舞台を狙っていくんや』って薄っすらと感じていて。ちょうどドーハの時期は記録が伸びていて楽しいと思えていたし、初めて『世界大会に出たい』と思いました」

 ドーハ世界選手権の参加標準記録は6m72。当時の自己記録(6m45)ではまだ遠く及ばない世界だったが、少しずつトップアスリートとしての自我が芽生え始めていた。

大学1年時には走高跳で日本トップクラスに駆け上がったが...... photo by Murakami Shogo

【パリ五輪参加資格も得た歴史的ビッグジャンプ】

 2021年に控えていた東京五輪。この東京大会から五輪としては初の「ワールドランキング制」が導入され、参加標準記録を突破できずとも、各試合の結果をポイント換算するワールドランキング上位に入れば出場資格を与えられる仕組みが設けられた。

 秦はこのランキングによる代表入りを見据えていたものの、ターゲットナンバー(出場枠)である32位の選手との差は約30ポイント。37位で出場権獲得は叶わなかった。

「その時は『どのくらいのポイントを取れば出られるのか』という目安もわからなかったので、自分の中で楽観的に捉えていた面もありました。本来だったら海外の試合に積極的に出て、ポイントを稼ぐべきだったのですが、なんとなく避けていたところもあって。結局、代表入りを逃してしまい『受け身じゃ世界は無理なんや』って。出られたかもしれない舞台を取りこぼしてしまったことへの後悔と責任を感じました」

 東京五輪のシーズンで感じた反省を生かし、オレゴン世界選手権が控える翌年は、より確実な参加標準記録(6m82)の突破を見据え、春先から着実に記録を残していった。結果的に標準記録には届かなかったものの、ポイント制でランク付けされるワールドランキングにより、自身初の世界大会の切符をつかみ取った。

 女子走幅跳では日本人6大会ぶりの出場を果たした秦。オレゴン世界選手権は全体20位に終わり、悔し涙を流した。「世界で戦いたい」と迎えた今季は静岡国際で6m75の自己記録を跳び、ファールながら7m近いジャンプを何度も披露。国内大一番の日本選手権ではブダペスト世界選手権の参加標準記録に届かなかったものの、ワールドランキングによる代表内定は濃厚なものとなっていた。


7m00まであと3cmに迫る 写真提供:シバタ工業株式会社

 そして迎えた7月のアジア選手権。タイ・バンコクのピットに立った秦は、最終跳躍で6m97をマーク。白旗が上がり、記録が確定すると、全身で喜びをあらわにした。2009年に池田久美子がマークした日本記録を11cm塗り替えるとともに、ブダペスト世界選手権、パリ五輪の参加標準記録まで一気にクリアする大ジャンプだった。

 17年ぶりの日本記録となる歴史的な跳躍の手応えについて問うと、秦は「あんな気持ちいい跳躍はこの先出るのかな...」とやや苦笑いを浮かべながら、こう言葉を続ける。

「いま思い返してもうれしくもあり、ただ、あの跳躍から崩れてしまった部分もありました。その後の試合では『あの時だったらどうしただろう』という思考が出てきてしまって。『あの時はここがよかったから今回もこうしてみよう』というのがハマらない。それがわかったことは学びとしてプラスに捉えていますが、いい意味でも悪い意味でもけっこう後を引く日本記録だったのかなと思います」《つづく》

後編/「モデルジャンパーの肩書きはもう気にしない」》》

【プロフィール】秦澄美鈴(はた・すみれ)/1996年5月生まれ、大阪府出身。山本高(大阪)→武庫川女子大。小・中学校時代はバスケットボールをプレーし、高校から陸上競技を始める。当初は走高跳で頭角を現したが、大学入学以降、記録が伸び悩むと合わせて取り組んでいた走幅跳で成長。大学卒業後は走幅跳に専念すると、日本トップクラスへ駆け上がり、2019年に日本選手権で初優勝を果たすとその後も自己記録を伸ばしていく。2023年7月のアジア選手権では6m97を跳び、11年ぶりの日本記録更新を果たすと同時に2024年パリ五輪の参加標準記録を突破。世界陸上には2022年オレゴン、2023年ブダペストと2大会連続出を果たしている。