カルロス・ポンセ インタビュー(後編)

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 マイナーでプレーするか、日本に行くか──選択を迫られたカルロス・ポンセは、迷わず日本でプレーすることを決断した。はたして、ポンセが見た日本野球とはどんなものだったのだろうか。


88年に本塁打王、打点王の二冠に輝いたカルロス・ポンセ photo by Sankei Visual

【大洋が勝てなかった理由】

「いい選手がたくさんいたよ。ウチのチームでは、高木豊さんが真っ先に浮かぶね。エースの遠藤一彦さんもいいピッチャーだった。僕が日本に行った時はもうベテランの域に達していたけど、もっと若ければメジャーでも通用したと思うよ」

 チームには、元来の明るい性格もあってすぐに溶け込めた。学生時代から伸ばし始めたという自慢の口ひげも役に立った。当時流行りのゲームのキャラクター「マリオ」に似ていると、たちまちファンの心をつかんでいった。

「やっぱりカトウさん(加藤博一)の存在は大きかったよ。何かと声をかけてくれたし、打てなくて落ち込んだ時は相談に乗ってくれた」

 ポンセの打棒は、来日1年目から爆発した。打率.322、27本塁打、105打点。当時はシーズン130試合制だったことを考えれば、驚異的な数字である。

 当時は外国人選手に対するストライクゾーンが、日本人選手よりもかなり広いとの噂があったが、ポンセはまったく気にならなかったという。

「今のメジャーリーグのアンパイアを見てみろ。あれだってひどいもんだろう」

 来日2年目も好成績をおさめ、打率.323、35本塁打、打点は前年より少し落として98打点だったが、タイトルを獲得した。そして3年目の88年には打点王と本塁打王の二冠に輝いた。しかしチームの順位は、来日1年目から4位、5位、4位と低迷。タレントが揃いながらもBクラスが指定席だった大洋と、優勝争いが常連だったライバルチームとの差について、ポンセは次のように語った。

「やっぱり個々の能力が高くても、チームが勝つという目標に対するアプローチが、ジャイアンツやカープとは違っていたね。彼らは、何があってもチームの勝利を最優先していた」

 そのライバルチームには「メジャー級」の選手が揃っていたと振り返る。

「今もそうだけど、ジャイアンツはピッチャーが本当によかった。エガワ(江川卓)はたしかにすばらしいピッチャーだった。あとはミズノ(水野雄仁)もよかったね。でも、一番はあの背の高い、若い......そう、マキハラ(槙原寛己)だ。ストレートにスライダーという典型的なアメリカンスタイルのピッチングで、彼こそ間違いなくメジャーレベルだったよ。エガワよりもすごかったね。

 カープのピッチャーもよかったね。キタベップ(北別府学)はとにかく打つのが難しかった。ほかにもサウスポーのふたり......カワグチ(川口和久)とオオノ(大野豊)も速かったね。でもね、オオノは得意だったんだ。現役生活で一番印象に残っているのが広島戦で放ったサヨナラホームランなんだけど、その時のピッチャーがオオノじゃなかったかな。カワグチは最後までボールが見えなかったけど、オオノは投げる時に腕を下ろすだろ。だからボールが見やすかったんだ」

 一方、打者では「巨人打線はすごかった」と、篠塚利夫(現・和典)のミート力、原辰徳のパワーを挙げたが、これにはポンセ流のリップサービスが含まれていた。じつは今回の来日の際、真っ先に彼の口から出てきたのは、別のふたりだった。

「ジャイアンツのヨシムラ(吉村禎章)は、当時はまだ若かったけど、彼は間違いなくメジャーでもスターになれたよ。それにライオンズの一塁手、キヨハラ(清原和博)ね。リーグが違ったから少ししか見る機会がなかったけど、広角に打ててパワーがあった。彼もメジャー級の打者だったね」

【ドライバーから再び野球界へ】

 ポンセが日本でプレーした時代、つまり1980年代後半から90年代初めは、日米のプロ野球がもっともハイレベルだったと語る人は多い。メジャーは今より4球団少ない26球団で、日本は空前のバブル景気。現行の30球団ならメジャーでプレーできていたレベルの選手が日本に「助っ人」として流れ着き、ジャパンマネーは時として現役バリバリのメジャーリーガー獲得も可能にした。

 しかし、ポンセはこの考えには同調しない。

「今年のWBCを見たかい? 日本はメジャーリーガーを揃えたアメリカを破って優勝したじゃないか。ジャパンチームもメジャーリーガーがいたけど、NPBの選手だけでも十分勝てたと思うよ。アメリカの野球だって、あの頃よりは発展している。日本のプロ野球だって、僕らがプレーしていた頃よりレベルアップしていると思うよ」

 日本プロ野球史に名を残す活躍をしたポンセだったが、長くは続かなかった。

 来日4年目の89年はキャリアハイとなるシーズン562打席に立ったが、打率は来日以来最低となる.264、ホームランも24本に終わり、チームも最下位に沈んだ。当時はチーム不振の責任を外国人選手になすりつけるのが常だった。翌年、「衰え」のレッテルを貼られたポンセに与えられたポジションは「第3の外国人」だった。

 90年、大洋は前年ブルワーズで7本塁打を放ったジョーイ・マイヤーを獲得。そして88年に来日し、2年連続で3割をマークしていたジム・パチョレックのふたりで一軍の外国人枠(当時)は埋まり、ポンセはシーズンの大半をファームで過ごすことになった。

「彼らとはブルワーズで一緒だったよ。ふたりともいいヤツだったけど、彼らのために押し出された形になったのは複雑な気持ちだったね」

 結局この年、ポンセは一軍で15試合だけの出場に終わり、日本を去ることになった。

 翌年、モントリオール・エクスポズのスプリングトレーニングに参加したが、2週間でリリース。まだ32歳だったが、妻と相談のうえ、次の人生を歩むことになった。

「現役を引退したあとは、マイナーでコーチをしていたよ」

 コーチ業を5年ほどしたあと、ポンセはフィールドを離れた。

 ドライバーとして残りの職業人生を送っていたポンセを再び野球界に引き戻したのはSNSだった。ドライバー生活と並行して行なっていたジュニア世代へのバッティング指導の延長として、2019年にYouTubeチャンネルを開設したのだが、これを見た台湾プロ野球チームの味全ドラゴンズの関係者からFacebookのメッセンジャー機能を通じて連絡が入ったのだ。

「ドラゴンズは台湾の名門球団だったんだけど、99年に活動を停止したんだ。そしてこの年に活動が再開され、コーチを探していたところに僕のチャンネルが現れたっていうわけさ」

 味全ドラゴンズは翌20年からファームリーグへの参加が許され、ポンセは若い選手相手に打撃コーチとして指導を行なうことになった。

「選手とのコミュニケーション? ニーハオとシェイシェイで十分だったよ。同じ野球をするんだから。僕は1シーズンだけの指導だったんだけど、次の年からチームは一軍で戦うようになったね。だから、選手のなかにはアメリカの2Aや3Aでも十分にプレーできる選手はいたよ」

 台湾でのコーチ生活は1年で終わったが、ポンセは日本プロ野球OB選手会の一員として、現在も野球界に貢献すべく奔走している。

【今だから明かす応援歌秘話】

 日本滞在の最後は、大洋時代からのファンとのパーティーだった。会場となった横浜スタジアムの側にあるバーには、ホエールズのユニフォームをまとったコアなファンが多数詰めかけた。トークショーの際には、温厚な彼が珍しく起こした乱闘の話題になった。

「タイガースとの試合だったよ。3回当てられたんだ。2回までは許せるけどね。内角を攻めるのはわかるけど、ここ(脇腹)じゃないだろうって。当てられたのはこっちなのに、向こうの(村山実)監督が何か言ってきたから、僕もキレてしまったんだ」

 会場で流されたその時の映像では、デッドボールを受けた瞬間、ピッチャーに向かって一直線に突進するポンセの姿が映し出された。場内が大爆笑に包まれるなか、ポンセの「申し訳ない」というひと言に、さらに大きな笑いと拍手が起こった。

 ファンからはさまざまな質問が投げかけられた。かつてライトスタンドから熱心な応援を送っていたファンからは、日本のトランペットによる応援について感想を求められた。

 ポンセといえば、オールドファンなら誰でも歌うことができる「バモス、ポンセ」で始まる応援歌がおなじみだ。来日2年目からはおもにライトを守ったポンセにとって、応援団の声援は心強かったという。

「あのリズムはもともとメキシコの民謡なんだ。僕はプエルトリカン。なんでメキシコのリズムなんだって思ったんだけどね(笑)」

 そして話題は、ペナントの行方を左右する「大物助っ人」が少なくなった近年のプロ野球の外国人選手事情になった。日本野球のレベルアップ、メジャーリーグの年俸高騰などが理由として考えられるが、ポンセは真面目な表情になってこう語った。

「結局、日本でどれだけやるつもりがあるかだよ。僕の時代も、キャリアの最後だというつもりで来たメジャーリーガーもいたけど、長続きはしなかったね。少しでも日本の野球を見下す選手は活躍できないと思う。環境が違うから、僕も愚痴を言うことはあったけど、なるべくそうしないように心がけていた」

 そして最後に、ポンセはこう締めくくった。

「アメリカからベイスターズがチャンピオンになることを心から祈っています」


カルロス・ポンセ/1959年2月7日、プエルトリコ出身。ブルワーズでメジャーデビューを果たすも、マイナー降格を機に日本行きを決意。86年に大洋に入団し、1年目から打率.322、27本塁打、105打点と活躍。2年目には打点王のタイトルを獲得し、3年目は本塁打王、打点王の二冠に輝いた。90年に大洋を退団し、その後メジャー復帰を目指すも叶わず、現役を引退した。口ヒゲがトレードマークで「マリオ」のニックネームでファンから愛された