カルロス・ポンセ インタビュー(前編)

 阪神タイガースの18年ぶりのリーグ制覇、38年ぶりの日本一に沸いた2023年のプロ野球。そのシーズンの最中、かつて日本でプレーした外国人選手が多く来日した。そのなかのひとりが、80年代後半、Bクラスの常連だった大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)で孤軍奮闘の活躍でチームを支えたカルロス・ポンセだ。

 今回は一般社団法人日本プロ野球外国人OB選手会(JRFPA)の企画で、おもに中学生への野球クリニックを目的としたものだった。滞在期間は1週間弱と短かったが、大洋時代の思い出話などたっぷり聞くことができた。


今年9月に来日したカルロス・ポンセ。トレードマークの口ひげは健在だ photo by Asa Satoshi

【野球人生を変えたスカウトのひと言】

 現在はアメリカの富裕層が余生を送るフロリダのウエストパームビーチで運転手をしているが、まだ体が動くうちは指導者への情熱を失っていないようだ。

「日本に来て2年目の時に、プエルトリコを離れてフロリダに引っ越したんだ。そのほうが便利だからね。住んでいるところは、メジャーリーグのキャンプ地がいくつもあるきれいな町だよ。引退したあと、いくつかのチームのコーチをしていたんだけど、それが終わって、もうひと働きしようとトラックの免許をとったんだ。最初はデカいトラックで、バドワイザーのビールを運んでいたんだ」

 ビールは飲まないというポンセが、ビールのトレーラーを走らせていたというのも滑稽な話だ。

 また「打てなかった日はピザしか出してもらえなかった」という恐妻家伝説もあった(もちろんジョーク)が、今回ポンセが日本に滞在している間、朝になると婦人から連絡があったという。

「ファンミーティングで女性の方が一緒に写真撮ろうって密着してきてね。そんなの女房に見られたら大変なことになるから、スマホから消したよ」

 プエルトリコの首都・サンファン郊外のリオピエドラスという町で育ったポンセは、9歳で野球を始め、歳を重ねるごとに頭角を現していった。

「父親も野球をやっていたこともあって、地元のリトルリーグのチームに入ったんだ。高校時代は陸上もやっていたよ。プエルトリコにはプロのウインターリーグもあったけど、ゲームを見ることはあまり興味がなかったね」

 プエルトリコのナショナルチームのメンバーにも選ばれ、セントラルアメリカンゲームやパンアメリカンリーグといった国際大会に出場したこともあり、アメリカ本土の大学から奨学金を得たポンセは"母国"を離れることになった。

 本当の意味でスキルアップしたのはこの時からだと言うが、全米のみならず世界各国から逸材が集まる大学のレベルではそれまでと同じようにはいかなかった。挫折し、野球から離れた時期もあったという。そんなポンセにあるスカウトがかけた言葉が、彼の人生を変えることになる。

「肩は強いほうじゃないけど、グラブさばきは悪くない。ファーストをやったらどうだい」

 苦手な守備より得意な打撃をアピールすることで野球に復帰したポンセに、プロから声がかかった。

【念願のメジャーデビュー】

 1980年、ポンセはミルウォーキー・ブルワーズ傘下のアドバンス・ルーキー級ビュートでプロデビューを果たす。MLBドラフトにかからなかったアマチュアFAとしてのプロ入りだったが、その後、順調に階段をかけ上がり、84年には3Aまで昇格した。

「この頃、オフになるとプエルトリコのウインターリーグでプレーしていたんだ。ポンセ・レオーネスというチームでね。ポンセがポンセでプレーしたんだよ(笑)。家(リオピエドラス)の近くにもチームはあったんだけど、プエルトリコにもドラフト制度があって、自分の行きたい球団に行けるわけではないんだよ。今はハイウェイができて便利になったけど、当時は2時間弱、自分でドライブして球場に通ったよ」

 当時のウインターリーグにはバリバリのメジャーリーガーも多数参加していた。彼が所属していたポンセ・レオーネスにも、ビッグネームが参加していた。

「カージナルスのデイビッド・グリーン(のちに近鉄でプレー)や、足の速い盗塁自慢の......そうリッキー・ヘンダーソン。彼も一緒にプレーしていたよ」

"世界の盗塁王"リッキー・ヘンダーソンは、1980−81年シーズンのプエルトリカンリーグのシーズン盗塁記録を打ち立てている。彼らの姿を間近で見たポンセはメジャーへの思いを募らせていく。そして85年、ついにメジャーデビューを果たすことになる。

「3Aで打率.320を残したんだ。そのうちマイナーの監督に呼び出されて、メジャー昇格を告げられたんだ。故郷から母親を呼んでね。デビューはホームのカウンティ・スタジアム。昇格してから3日ほど待たされたんだ」

 ポンセのデビュー戦は、8月14日のタイガース戦。9回一死から代打として登場するも、同じプエルトリコ出身の抑え投手、ウィリー・ヘルナンデスの前に凡退し、セーブを献上している。それでも翌日のホワイトソックス戦はDHとして初スタメンを果たした。その後もポジションは変わりながらも、スタメンに名を連ねた。そして8月17日、ファーストで起用されるとメジャー初安打を含むマルチヒットを放ち、さらにその翌日にはメジャー初打点もマーク。次第にメジャーの水に慣れていった。

 しかし、当時のブルワーズには役者が揃っていた。ファーストにはのちにメジャー通算2000安打を達成するセシル・クーパー、外野にも通算3142安打のロビン・ヨーント、80年のホームラン王のベン・オグリビー(のちに近鉄でプレー)、DHにもこれまたメジャーで2000安打を達成するテッド・シモンズと、ポンセがラインナップに入り込む余地はなかった。

【日本球界を席巻したローポン・コンビ】

 翌86年、スプリングトレーニングを前に厳しい現実を突きつけられる。

「球団からバンクーバー(3A)に行くか、日本に行くか、二者択一を迫られたんだ。でも、即決したよ。日本に決まっているだろう。ブルワーズが提示したルーキーの6万8000ドル(当時のレートで約1150万円)より、大洋のほうが4000ドルほどよかったからね。しかも2年契約。その2年ほど前から、日本人のおじさんがキャンプのたびに僕のところに来て、『一緒に写真を撮ってくれ』と。それが大洋のスカウトの牛込(惟浩)さんだったんだ。

 当時、大洋はブルワーズと提携していたんだ。それで彼は、僕とダグ・ローマンに目をつけていたようなんだ。だから日本で2年プレーして、ブルワーズに戻るつもりで契約したんだ。2年もすればポジションに空きが出るかもしれないからね。たぶんローマンもそのつもりだったんじゃないかな。ローマンは物静かなヤツでね。敬虔なキリスト教徒で、神父だったか牧師だったかになるために野球から離れたんじゃなかったかな。今はもう連絡をとってないけど、どこかの教会にいると思うよ」

 ふたりは来日を果たし、「ローポン・コンビ」として日本球界を席巻することになる。

「当時の大洋の監督は近藤(貞雄)さん。すごく物静かで、僕たちのやりやすいように自由にやらせてくれたよ。審判にだけはうるさい監督さんだったけどね(笑)」

 日本での初めてのキャンプ。その近藤監督から最初に告げられた言葉に、ポンセは驚愕した。

「『サードはどうか?』って言われたんだ。クレイジーだと思ったよ。なにしろリトルリーグでしか守ったことがなかったからね。いや、マイナーで守ったこともあったかな。いずれにしろ、ほとんど未経験に近かった。でも『イエス』って返事したけどね」

 そして開幕をサードで迎えたポンセだったが、慣れないポジションに大苦戦。やがてベテランスラッガー・田代富雄の故障により、慣れ親しんだファーストのポジションに就くことになった。

後編につづく>>


カルロス・ポンセ/1959年2月日、プエルトリコ出身。ブルワーズでメジャーデビューを果たすも、マイナー降格を機に日本行きを決意。86年に大洋に入団し、1年目から打率.322、27本塁打、105打点と活躍。2年目には打点王のタイトルを獲得し、3年目は本塁打王、打点王の二冠に輝いた。90年に大洋を退団し、その後メジャー復帰を目指すも叶わず、現役を引退した。口ヒゲがトレードマークで「マリオ」のニックネームでファンから愛された