元中日・上原晃氏【写真:山口真司】

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上原晃氏は1992年に右手人差し指の血行障害が判明…手術を受けた

 まさかの故障発覚だった。元中日投手・上原晃氏の野球人生を暗転させたのは1992年、プロ5年目の夏だった。「血マメができても、回復しないので、トレーナーに相談して病院に行ったら血行障害と診断されたんです」。怪我には人一倍、注意していたつもりだった。ショックは大きかった。その後、迷いながらも最終的には手術に踏み切ったが、これには4歳年上の剛速球投手・与田剛氏(元中日、ロッテ、日本ハム、阪神)の過去が関係していた。

 その年は高木守道氏の監督1年目。上原氏は開幕から調子が上がらなかった。高木監督は先発で使ってくれたが、結果が出なかった。先発は3試合だけでリリーフに逆戻り。夏場には失点シーンも目立つようになった。その上、出てきたのが“血マメ問題”だ。「夏場に血マメができることもこれまでなかったし、一向に治らないので、おかしいと思った」。そして右手人差し指の血行障害であることが判明した。

「普通なら血マメができても血が流れて、そういった傷を修復していくんですけど、血が流れないから修復していかない。治らない状態が続いていたんです」。上原氏は肩、肘に関して細心の注意を払っていたが「まさか、こういった指先がどうのこうのっていうのは考えてなかったです。僕は他の人よりも指先を走らせるピッチャーだったと思う。そのツケかなと思いましたね」。完全に治すためには手術が必要だった。

「手術は迷いました。手術したらストレートの球速も落ちるんじゃないかと心配でしたからね」。そんな時に勇気づけられたのが、与田氏の存在だった。亜細亜大時代に血行障害を患って手術。NTT東京を経て1989年ドラフト1位で中日に入団し、157キロの剛速球を投げていた。血行障害の手術をしてもスピードが落ちない実例だった。しかも、あれだけのボールを見せられたら、安心材料になる。5年目は16登板で0勝3敗、上原氏は手術を決意した。

一度復帰も右手中指の血行障害が判明…2度目の手術を受けた

「実際のところ、与田さんと僕とでは同じ血行障害でも手術した個所は違ったんですけどね」と言うが、手術後も当初は順調だった。6年目の1993年は4月から1軍で投げていた。すべてリリーフ登板で結果も出した。「スピードも出ていました」。しかし、長く続かなかった。「人差し指はよくなったんですけど、今度は中指がおかしくなったんです」。6年目は6月10日の阪神戦(甲子園)に2番手登板して 2/3回を2失点。ここで上原氏はシーズン終了となった。

 2度目の手術後は調子が上がらなかった。「2度目の後は、もう本来のスピードではありませんでした。ガタンと落ちた。スピードは戻ってきませんでした」。術後のリハビリにも時間がかかり、7年目の1994年は1軍登板機会なし。「最初の手術の時に人差し指と中指の両方やっていればよかったんですけど、たぶん1回目の時の検査で中指は引っかかってなかったということだったと思う」。それもまた、ついてなかったというか……。

 上原氏が1軍に戻ったのは8年目、1995年9月29日の横浜戦(ナゴヤ球場)までずれ込んだ。3番手で登板し1回無失点だった。10月2日の阪神戦(甲子園)には先発し、6回2/3を1失点で勝利投手になった。勝ち負け関係なしだったが、シーズン最終の10月10日の阪神戦(ナゴヤ球場)にも先発して6回3失点。この時26歳。「自分でもまだまだこれから行くぞって気持ちだった」。10月2日の白星が現役ラスト勝利になるとは当然、思ってもいなかった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)