念願の先発も「いい思い出がない」 追い込み続けた20歳剛腕…“方向転換”が呼んだ炎上
上原晃氏は2年目の1989年途中から先発も「満足感がなかった」
元中日投手の上原晃氏は1988年のルーキーイヤーにリリーフ投手として、チームをリーグ優勝に導いてブレークしたが、2年目の1989年は5月下旬から先発に転向した。「星野(仙一)監督には言いませんでしたけど、池田(英俊)投手コーチには『やっぱり先発がしたい』とずっと言っていたんです」。そんな希望がかなってのことだったが「いい思い出が残っていない」という。「あの頃は自分の投球に満足感がなかった」と無念そうに話した。
2年目の上原氏の成績は22登板で4勝5敗、防御率4.46。開幕当初は1年目同様にリリーフだったが、5月20日のヤクルト戦(ナゴヤ球場)から先発になった。1年目に1試合だけ先発(1988年10月12日阪神戦、ナゴヤ球場、5回1失点)したが、本格的な転向はその時からだ。6回1/3を2失点。ラリー・パリッシュ内野手と池山隆寛内野手に一発を浴びたものの中日リードの状況で降板した。リリーフが打たれてチームは敗れたが、合格点の投球だった。
しかし、当時の上原氏はそう思えなかった。「今考えればクオリティ・スタート(先発が6回以上投げて自責3以内)だし、しっかり仕事をしているじゃないですか。でも、その時は物事の捉え方や考え方がネガティブだった。割り切れなかった。勝ちにつながっていれば違ったのかもしれないけど……」。セットアッパーとして抑えて当たり前だった1年目の自分と比較し、2発打たれたことの方が納得できなかったようだ。
そんな風にプラスに捉えられなかったことが影響したのだろうか。先発2試合目は5回2失点、3試合目は3回3失点でいずれも敗戦投手。4試合目の6月6日の阪神戦(甲子園)の5回1失点で先発初勝利をマークしたが、5試合目は4回2/3を5失点で敗戦投手。ここで2軍落ちとなった。「(この年の先発)2試合目の5回2失点も普通ですよね。でもそう思えなかった。もっとできるはずって自分を追い込んでいって、自分の中で消化できなかった……」
結果を求めた結果「合わない方向に行った」
2年目のキャンプ中から池田投手コーチには先発希望を伝えていた。それを実現してもらった形になり、なおさら結果を求めた。「ちょっと『間』を持った投球フォームになったりとか、切れのいいボールをどんどん投げていくスタイルから、勢いだけじゃなくて、技術的に良くなろうとして間違った方向というか、合わない方向に行ったという記憶も少しあります」。結果は決して悪くなかったのに、そう考えられなかったことが、状況をむしろ悪くしたのだった。
その年は8月中旬に1軍復帰。以降もほぼ先発として起用され、最終的に4勝をマークした。だが、気持ちは晴れていなかった。切り替わっていなかった。10月4日の広島戦(ナゴヤ球場)では9回6失点完投も敗戦投手に。これが上原氏の現役生活で唯一の完投だったが、勝ちにつながらなかった。「2年目は4勝したんですよね。あの時、もっといいように考えていればねぇ。今だったら全然違うように思えるのに……」と上原氏はまた悔しそうに話した。
その流れのまま3年目(1990年)を迎えた。この年も最初はリリーフだったが結果を出せず、4月中旬に2軍落ち。7月下旬に1軍に戻って、再び先発となったが13登板、2勝5敗、防御率6.85とふるわなかった。「ジャイアンツ戦に先発して打たれて、怒られて星野監督にビンタされたこともありましたね。ミーティングが終わって、僕は一番前にいたんですけど、まず星野さんが立ち上がって、僕も立ったら、そのままバーンとね」。
現在なら、それだけでアウトだが「僕の中ではそれもエピソードのひとつとしてあるだけで、期待されているからだって捉えていましたよ。まだまだ力不足だなって思いながらね」。剛速球で打者をきりきり舞いさせた1年目とは打って変わって、2年目、3年目は苦しさばかりが……。上原氏にとって歯がゆい思いの時期だった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)