突然、父の誘いで少年が両親と向かった先は夢と魔法の王国だった(撮影:田邊佳介)

世界35カ国で翻訳、シリーズ320万部を突破している小説『コーヒーが冷めないうちに』。ハリウッドでも映像化され、世界中で話題のシリーズを東洋経済オンライン限定の試し読みとして配信。シリーズ最新作『やさしさを忘れぬうちに』の第1話「離婚した両親に会いにいく少年の話」の第2回をお届けします。

第1回:過去に戻れる喫茶店に来た7歳少年の切なる願い(3月27日配信)

「ディズニーランドに行きたくないか?」

桐山少年はこの喫茶店で泣いてしまったことを後悔していた。

去年のクリスマスの朝。

突然、父の健二が、

「ユウキ、ディズニーランドに行きたくないか?」

と、言い出した。

その頃、仕事が忙しいと言って、なかなか家に帰って来なくなっていた健二の言葉に、桐山
少年は戸惑った。

「お仕事は?」

「なんだ? 嫌なのか?」

「ううん」

桐山少年は、テーブルの向かいで朝食のトーストを頬張る母の葵を見た。

なぜなら、葵が何かを健二に相談すると決まって、

「家のことはお前に任せる。俺は仕事で忙しい」

と言うのを見ている。健二の誘いに応じていいかどうかは、葵に相談するべきだと思ったのだ。

「いいわね。今日はクリスマスだもの、ね?」

「あ、ああ」

健二の前で笑う葵を見るのは久しぶりだった桐山少年は、

「じゃ、行く!」

と、喜んだ。

ディズニーランドには葵が運転する車で向かった。助手席に桐山少年。神保町の自宅からディズニーランドへは神田橋の料金所から首都高速都心環状線に乗り、湾岸線羽田方面へ向かって二十分弱だった。

だが、クリスマスということもあり、葛西インターの出口はひどく混んでいた。

「だから、浦安インターから出ろって言ったんだよ」

「じゃ、あなたが運転してくれればよかったじゃない?」

「お前がするって言ったんだろ」

「車の中で仕事したいって言ったからでしょ? なんなの、その言い方」

自宅を出てからディズニーランドに着くまで、車内では健二と葵のいさかいが続いていた。

この日ばかりではない。

二人は数年前から日常生活の些細なことで言い争うようになっていた。

発端は、仕事と育児に対する価値観の相違だった。

葵は、出産後、桐山少年を保育園に預けて広告代理店の仕事に復帰できると思っていた。だ
が健二は、「ユウキが三歳になるまでは、性格形成に一番大事な時期だから、育児に専念してほしい」と主張した。

「確かに。じゃ、ユウキが三歳になるまでは我慢する」

と、当時の葵は健二の主張に理解を示した。

その時、健二は言葉にこそ出さなかったが、

(我慢するって何だよ? それじゃ、俺が無理強いしてるみたいじゃないか。母親なんだから当然だろ)

と、葵の発言に不満を持った。

葵に悪気はなかった。好きな仕事に復帰しないことを「我慢する」と言っただけで、(ユウキを育てることは、私も仕事よりも大事なことだと思っている)という気持ちが、健二には伝わっていなかった。

このことがあって以来、健二はことあるごとに、

「家のことはお前に任せる」

と、口にするようになった。健二の言葉には、「子育ては母親がするべきだ」という感情が無意識に表れていた。

そんな健二の態度は、葵の感情を逆なでした。

(なぜ、私だけが子育てを押し付けられなければならないの? あなたは仕事を理由に子育てから逃げているだけ。……でも、それを言えばきっと喧嘩になる)

葵も健二に対する不満を呑み込み、桐山少年が三歳になるまではと耐えていた。だが、子育てに追われる日々が、葵からだんだん「働きたい」という気力を奪っていった。

「仕事復帰するんじゃなかったのか?」

「じゃ、育児と家事手伝ってよ」

「そんな時間、あるわけないだろ。こっちは休日返上で働かなきゃならないほど忙しいんだぞ」

「私だって仕事に復帰したらそうなるわよ。そしたらユウキの面倒は誰が見るのよ?」

「保育園に預ければいいだろ」

「簡単に言わないでよ」

「何だよ。最初からユウキが三歳になるまでという約束だったじゃないか」

「それはあなたが言ったことでしょ?」

「君だって同意しただろ?」

「で? 私には家事と仕事を両立しろと?」

「わかってて、復帰したいって言ってたんだろ?」

「三年前の話でしょ? 育児がこんなに大変だって知らなかったし、それに」

「なんだよ?」

「あなたがこんなにも子育てに関心がないとは思わなかった」

「関心がないわけじゃなくて、俺はお前たちの生活を守るために必死になって働いてきたんだよ。今度は君が仕事に復帰して、少しは僕に楽させてくれよ」

「は? 私がこの三年間遊んでたみたいな言い方しないで」

「育児は仕事とは違うだろ?」

「じゃ、やってみればいいじゃない。どれだけ大変かわかるから」

「できるわけないだろ。仕事してんだから」

二人の言い争いは日常茶飯事に

売り言葉に買い言葉。感情のもつれのせいで、本来の言葉の意味はゆがみ、正しく捉えられなくなる。

桐山少年の物心がつく頃には、二人の言い争いは日常茶飯事となっていた。そのたびに、喧嘩の仲裁に入るのは桐山少年だった。

この日のディズニーランド行きの車中でも、

「僕が運転変わってあげれればよかったのに。お母さん、ごめんね」

と、割って入った。

桐山少年の言葉に嘘はなかった。葵のために心の底から運転を替わってあげたいという、心の底からの気持ちがある。そんな桐山少年の思いやりを葵は十分理解しているし、健二は、こんなに優しい息子は他にいないと自慢に思っている。

「い、いいのよ、ユウキ。お母さんたちが悪かったわ。今日はせっかくのディズニーランドなんだから仲良くしないとね。ほら、あなたも」

葵はバックミラー越しに健二に目配せした。

「あ、ああ。そうだった」

健二は何かを思い出したように表情を変え、開いていたパソコンをカバンにしまい、

「ごめんよ、ユウキ、お父さん、今日はもう仕事しないから」

と、後部座席から桐山少年に頭を下げた。

「うん」

桐山少年は満面の笑みを見せた。

到着が遅かったため、車はディズニーランドから遠く離れた駐車場に止めることになった。
入園するためには、手荷物検査の後、チケット売り場の長蛇の列に並ぶ必要がある。この時点で自宅を出てから二時間半が経過していた。

ディズニーランドは、土日や祝日、クリスマスなどには入場制限がかかる場合もある。無事、入園できたとしても人気のアトラクションにはさらに数時間待たなければならない。

ひと昔前に「カップルでディズニーランドに行くと別れる」という都市伝説がまことしやかに囁かれた時期があった。ディズニーランドをライバル視する遊戯施設が噂を流したという陰謀説もあったが、実のところ、長い待ち時間が原因と言われている。

スタンバイパスが導入される前は、百分を超える待ち時間もあった。ふたりとも年間パスポートを所有するようなカップルであれば、お目当てのアトラクションに乗るための待ち時間も苦にはならないだろう。だが、そうではないカップルの場合、予想外の待ち時間の長さに、会話のネタが尽き、無口になり、果ては口論に発展してしまうこともある。

そして、ディズニーランドに行って別れたという話が、都市伝説へと発展した。

「行くと幸せになれる」というジンクス

そんな都市伝説を知ってか知らずか、桐山少年が家族でディズニーランドに行きたがったのには理由があった。

ディズニーランドには、「行くと幸せになれる」というジンクスもある。

例えば「ミッキー、ミニーと握手ができたら恋が成就する」や「ディズニーランドに行くと、子供を授かることができる」などがそれである。これらのジンクスにも根拠などない。だが、ディズニーランドが夢の国と言われている通り、幸せを願う来場者にとっては最高のジンクスである。

幸せになれるジンクスの中の一つに、

「イッツ・ア・スモールワールドの最後のゲートで願い事をすると叶う」

というものがある。

イッツ・ア・スモールワールドは、水に浮かぶゴンドラに乗って世界の国々をめぐるアトラクションである。桐山少年は、そのゲートで願い事をするつもりだった。

幸いにも健二と葵は、車の中でのいさかいの後は、長い待ち時間の間も笑顔を絶やさなかった。人気のアトラクションには一つしか乗れなかったけれど、イッツ・ア・スモールワールドのゴンドラが最後のゲートを通過する時に願い事ができた桐山少年は満足していた。

帰りの車は健二が運転した。

桐山少年は後部座席で葵の膝を借りて眠っていた。数年ぶりの家族三人での休日に桐山少年は素直に喜び、無邪気にはしゃいだために疲れたのだ。

「ユウキ、着いたわよ。起きなさい」

葵に起こされ、向かった先は自宅近くの喫茶店だった。

夕食を取るつもりで神保町の駅前に車を止めたが、クリスマスのせいで、どこの店も予約が一杯で入れなかった。しばらく歩くと、人通りの少ない小さな路地にこの喫茶店の看板が出ていた。健二が中を確認に行くと、クリスマスだというのに客は一人で、軽食も、ケーキも出してくれると言う。

桐山少年は家族三人でクリスマスらしいクリスマスを祝えることに心を踊らせた。

元々、この喫茶店には二人掛けのテーブル席しかなかったが、無口で大人しそうなウエイトレス、時田数が桐山少年の席を用意してくれた。

音楽のないクリスマスの夜

「いらっしゃいませ。飲みものは何にされますか?」

「車なのでノンアルコールのビールを。妻にはシャンパン、この子にはオレンジジュースを」

「かしこまりました」

声をかけてきたのはコック服を着た時田流である。流は身長二メートル近い大男で、二歳くらいのくりくりとした大きな瞳の女の子を抱いていた。名はミキ。流が大きすぎて胸元にしがみつくミキはリスか何かの小動物にも見える。

クリスマスなので、店内にはツリーが飾られているのだが、クリスマスソングは流れていなかった。唯一、聞こえてくるのはキッチンの奥でミキが口ずさんでいる「ジングルベル、ジングルベル」という呪文のようなささやきだけ。


普通の客であれば音楽のないクリスマスの夜など物足りないし、違和感があったに違いない。

だが、健二も葵も気にする様子を見せなかった。三人は、数が静かに運んでくる食事を取りながら、今日一日ディズニーランドであった出来事を楽しく思い返していた。

クリスマスだというのに、他の客は誰も来ない。いるのは一番奥の、冬なのに半袖の白いワンピースを着た女性だけ。

まさに親子水入らず。桐山少年にとっては、数年ぶりの幸せな時間を過ごす思い出になるはずだった。だが、その喫茶店で、桐山少年には悲しい現実が待っていた。

(第3回に続く、3月29日配信予定)

(川口 俊和 : 小説家、脚本家、演出家)