野球人生を変えた名将の言動(6)

森本稀哲が語るトレイ・ヒルマン 前編

(連載5:阪急の練習生だった松永浩美が場外弾を17連発。上田利治監督は「また、いったぞ!」と驚いた>>)

 指導者との出会いが、アスリートの競技人生を大きく変える。日本ハムの主力として2006年の日本一と3度のリーグ優勝に貢献した森本稀哲氏は、トレイ・ヒルマン監督(現ロサンゼルス・エンゼルスの選手育成コーチ)との出会いが「野球人生のターニングポイントになった」という。

 球団の北海道移転元年(2004年)の指揮官でもあるヒルマン監督は、就任4年目の2006年にチームを25年ぶりのリーグ優勝、44年ぶりの日本一へ導き、2007年にはリーグ連覇を達成。日本ハムのチーム力を引き上げ、北海道にチームを根づかせた功労者だ。そんなヒルマン監督とのエピソードを、当時の主力選手である森本氏に聞いた。


ヒルマン監督(左)のもと、日本ハムの主力として活躍した森本稀哲

***

――ヒルマン監督と初めて会った時の印象はいかがでしたか?

森本稀哲(以下:森本) 最初に会ったのは、ヒルマン監督が日本ハムの監督に就任する前でした。日本ハムとニューヨーク・ヤンキースが業務提携をしていた関係で、2000年にヤンキース傘下のマイナーの秋季キャンプに参加したのですが、そこで指揮を執っていたのがヒルマン監督だったんです。

 その後、日本ハムの監督に就任して秋季キャンプ(2002年)で顔を合わせた時に僕のことを覚えてくれていて、「体が大きくなったな」と声をかけてくれました。球団からは「足も速いし、いい選手に成長している」と聞いていたようで、すごく高い評価をしてくれていましたね。

――ヒルマン監督は、選手たちと積極的にコミュニケーションをとるタイプですか?

森本 そうですね。言葉の壁はありましたが、通訳の岩本賢一さんを介して積極的にコミュニケーションをとっていましたし、ポジティブな言葉を多くかけてくれました。選手たちに歩み寄ろうと試行錯誤していたと思います。

 日本の文化や野球の練習方法に違和感を抱くこともあったと思いますが、理解しようと前向きに努力していることが伝わってきましたね。まずは日本のこと、チームのことを知り、その上でチームを変えていこうという熱意を感じました。

――選手が監督室に相談しにいくこともありましたか?

森本 僕が和田毅投手(ソフトバンク)と相性がよかったシーズンがあったのですが、和田投手が先発する試合でスタメンを外された時があって。相性がいいことは知っているはずですし、納得がいかなかったので、監督室まで行って「なぜ、(和田投手に対して)結果を残しているのに、今日はスタメンではないんですか?」と聞いたことを覚えています。

――ヒルマン監督の反応は?

森本 ヒルマン監督からは「相性がいいことはわかっているけど、今日は我慢してくれ」という返事がありました。ただ、これに関しては、普段から「(話したいことがあれば)何でも相談してくれ」と言われていたとはいえ......今思えば「生意気だったな」と思います。当時は自分も若くてツンツンしていましたし、とにかく存在感を示したいという思いが強かったですから。それでも二軍に落とされることはなかったですし、ヒルマン監督の懐の深さを感じました。

――森本さんは当初から高く評価をされていたとのことですが、期待の大きさを感じましたか?

森本 当初から「絶対にスーパースターになれる」「(1991年から2006年までヤンキース一筋でプレーした名選手の)バーニー・ウィリアムスに似ている」といったことを言われましたね(笑)。僕のどの部分を見てそう言ってくれているのか、と思うこともありましたが、期待してくれているのは十分に伝わってきましたし、名選手の名前を挙げて評価してくれたことはモチベーション向上につながりました。ただ、僕はなかなか結果を出せず、うまくいかない日々が続いていました。

――調子が上がらない時にかけられた言葉で、覚えているものはありますか?

森本 2005年の交流戦の横浜戦で大敗したあと、監督室に呼ばれたんです。僕は「二軍行きの話をされるのかな」と思っていたのですが、「明日、スタメンでいくぞ」と。「ヒットを打たなくていいから、戦う姿勢を見せてハッスルしてくれ。とにかくチームに勢いをつけてくれ」と発破をかけてくれて、実際に翌日の試合では1番で起用されました。チームを奮い立たせる起爆剤として、僕に白羽の矢が立ったんだと思います。

 まさか「ヒットを打たなくていい」と言われるとは思っていなかったので驚きました。それで、とにかく気持ちを前面に出していこうと試合に臨んだんですが、まったく打てず......。それでも次の日の練習中に、「昨日の向かっていく姿勢は本当によかった。今日もスタメンでいく」と話してくれて。起用を続けてくれ、その2試合後になんとかヒットを打てたんです。

 それまではレギュラーを獲りたい一身で、「結果を出さなきゃいけない」と必死になって空回りしていました。自分のいい部分を出せなかったのですが、ヒルマン監督の言葉で気持ちがスッと楽になって、徐々に結果が出始めるようになります。僕が勝手に背負っていたプレッシャーから解放された感じがしましたね。僕の一軍での野球人生が始まったのは、この時からです。

(後編:ヒルマン政権の日本ハムはなぜ強かったのか。森本稀哲が感じた、選手の集中力を生むメリハリ>>)