※この記事は2021年04月22日にBLOGOSで公開されたものです

頼まれてもないのに教えたがる人

「教え魔」ということばがある。

多くの人には、あまりなじみのない文字列であるかもしれない。「頼んでもないのにあれこれと教えてくる人」のことを指した単語である。先日のNHKニュースで「教え魔」が取り上げられ、SNS上で一気にそのワードが拡散した。

「教え魔」は、たとえばボウリング場やゴルフ場などの趣味・レジャー施設や、登山・ハイキングなどのアウトドア系の領域で、初心者らしき人を見つけては、手取り足取りコーチングをやりたがる人びとのことを指している。「親切な人」ではなくて「教え魔」と命名されていることからもわかるように、コーチングを受ける側は、「自分なりに楽しむ」という機会を奪われて迷惑がっているのである。

「教え魔」自体は、上述したような趣味や活動に参加している人びとにとってはすでに定着したワードだったようだが、改めてメディアで取り上げられたところ、各所から「いるいるこういう人!」と大きな反響があったようだ。

個人的に楽しむためにやってきた場所で、突然見ず知らずの人に「指導」を受ける羽目になってしまうとすれば、たしかに迷惑この上ない話である。実際、こうした施設ではしばしば「教え魔」に対する苦情が発生しており、「教え魔」のせいでその趣味から撤退してしまった人すらもいるという。ありがた迷惑、小さな親切大きなお世話とはまさにこのことだ。

「教える」ことは、気持ちいい

「教える」という行為は、想像する以上に認知的報酬が大きい営みだ。

だれかに「教える」ことができれば、教えている相手よりも自分が対人関係的には優位であり、能力的にすぐれているという確信を与えてくれる。また、「教える」という営みを通じて自分がだれかの役に立っている自己肯定感も与えてくれる。

趣味の空間にかぎらず、職場でも新入社員に対して「頼まれてもいないのにあれこれアドバイスをしたがる人」が高確率でひとりやふたり現れるのがつきものだが、こうした人は自己有能感や自己肯定感が日常的には著しく欠乏しており、初心者がやってきたときに「教える」という行為によってそれらを補給しようとしている。

BLOGOSの読者で、今月から新社会人・新入社員の人もいるだろうから、くれぐれも覚えておくとよい。入社早々やたら親しげに接してきて、頼まれてもないのにあれこれ世話を焼いてくれる人は、周囲から有能とは思われておらず、また組織のなかでも肯定的な評価を受けていない人である可能性が高いと。

キャンプ場に現れる「ベテランキャンパー風教え魔おじさん」

「教え魔」がいま出没している場のひとつが、「キャンプ場」だと言われている。

近年になって若い女性のあいだで「ソロキャンプ」が流行しつつあり、タレントからYouTuberまで数多くの「女性キャンパー」が活躍している。女性でも軽量で扱いやすく、またおしゃれなアイテムも多数増加している。

こうした背景も手伝ってか、ひとりでキャンプを楽しむ女性のもとに、とくに中高年男性のベテランキャンパー風の「教え魔」がやってきて、やたらとコーチングやアドバイザーを買って出て嫌がられる――という事例が発生しているようだ。

25歳女です。キャンプでのもやもや。
先日初めてソロキャンプに挑戦してみました!

車からテントを取り出すところまで準備したところ、やたら話しかけてくるおじさんがいました。

テント立てるの手伝うよ?とか火起こし手伝うよとかあれこれずっと言ってくるのですが、そもそもそんなことも出来ない様な奴が一人でキャンプ何かこないでしょって思いながら適当にあしらってました。

他にも少し一人で水汲みに行っては他の男がテントまで持っていこうか?とか一人でキャンプ楽しみたかったのに本当にうんざりです。

そして一番の大問題は夜でした。私が寝袋を準備しながら、着替えたりしようとしてた時、昼間のおじさんがいきなりテントを開けてきたんです。

「いきなりお邪魔してごめんね!夜は危ないから気をつけてね!」とか、いや危ないのはお前や。と言いたいのをグッとこらえて何とか就寝して、次の日も昼までゆっくりしたかったのですがおじさんがくるので足早に帰りました。本当に意味がわかりません。

キャンプ場で女性に声かける男は一体何をかんがえてるんですか?
キャンプに来てる意味わかってないほど知能が低いのでしょうか?
火起こし手伝うよ!任せて!ってそれが楽しくてキャンプにきてるんですよ、、

-----
Yahoo知恵袋『25歳女です。キャンプでのもやもや。』(2021年3月29日)より引用
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13240963748

見ず知らずの女性に対して、ぐいぐいと距離感を詰めてあれこれ教えたがる中高年男性は、場合によってはハラスメントとして非難されることも免れえない。せっかくの「女子キャンプ」ブームも、そこに現れた「教え魔おじさん」によって下火になってしまわないか、憂慮する状況となりつつある。

「教え魔」はなぜ生まれるのか?

煙たがられ、嫌がられる彼ら「教え魔」であるが、しかし彼らは悪意があって「教え魔」となっているわけではない。むしろ、善かれと思ってそうしているのだ。

「教え魔」となってしまった人は、概して孤独な人が多い。ただし、好きで孤独になっているわけではなく、孤独であることを余儀なくされた――孤独を半強制的に選ばされた――人であることがもっぱらである。

本人としてはむしろ孤独などまったく好きではなく、本当はだれかと交わって、慕われて、承認されたいという欲求が人一倍強い。孤独を嫌い、自分に友好的なだれかとの関わりをつねに求めているのに、傍らにあるのはいつだって他人や仲間ではなく孤独である――そんな人が、いつの間にか、本人も気づかぬうちに「教え魔」になってしまう。

もちろん、たとえばキャンプ場にいるすべての中高年男性キャンパー全員がそうであるわけではないことは断っておきたいが、しかし大人数の参加が前提になっているような趣味を――他者との安定的で友好的なつながりが乏しいために――選ぶことができず、消去法的に巡り巡って「キャンプ」という趣味にたどり着く人もそれほど珍しくはない。

一方、キャンプを楽しむ若い女性たちは《あえて》孤独を選び、それを楽しむためにキャンプ場にやってくる場合が多い。若い女性の日常生活で「関わり合いを持ちたがる他者」の登場確率は、中高年男性のそれとは比較にならないほど高いからだ。

ともすれば「お近づきになりたがる他者」の登場自体にもはやうんざりしている人さえもいる。できれば、日常の人間関係から距離をとって、ひとりになりたいのである(それ自体はおかしなことではなく、人と人との過剰な接続状態から一時的に距離を取り、人と自然との接続に切り替えられることがキャンプのだいご味の一つとされる)。

望むか望まぬかにかかわらず、他者とのかかわりで飽和状態となっている日常から抜け出し、つかの間の孤独の営みに癒されようというモチベーションからキャンプをはじめるのだ。その意味では、近頃の若い女性たちにキャンプが流行するのは自然ななりゆきであったようにさえ思われる。

孤独を選ぶほかないタイプの中高年男性からすれば至極贅沢な悩みに思えるかもしれないが、女性に「人間関係の接続過剰」という生きづらさを抱える人はそれほど少なくない。

「孤独」なふたりの不幸なすれちがい

孤独であることを余儀なくされた「教え魔おじさん」と、孤独をあえて選んで癒されにやってきた「ソロキャンプ女子」とのあいだに、不幸なすれ違いが起きてしまうのは残念ながら必然的と言えるだろう。

平時においてはだれとも関われず、あるいは関われたとしても自己充足や自己肯定に結びつく人間関係が得がたい人にとって、「教える役割」で自己有能感と自己肯定感を得ながら、しかも「若い女性」という自分とはもっとも縁遠い存在からの(性的)承認を得られるチャンスが目の前にぶら下がっていたなら、それに飛びつかない方が不自然だ。

「教え魔」おじさんにとってみれば、砂漠をさまよって喉が渇き、半死半生のなかでオアシスを見つけたかのような心持ちだったのかもしれない。しかし「ソロキャンプ女子」の視点からすれば、せっかくキャンプでひとりになれたのに、またここでも「かかわりを求める他人」がやってくる(しかも日常で出会う人よりもやたらとグイグイ来る)のだから、たまったものではない。

「自分のことを見てくれる他者」に飢えている者と、そのような人にうんざりしている者が、不運にも同じ場所に居合わせてしまった――「教え魔」とその被害は、往々にしてこのように起こる。現実は、キャンプ人気の火付け役のひとつともなった人気漫画のようにはいかないのである。

「不快なかかわり」がますます許されなくなる社会

「教え魔」はたしかに、現代社会のさまざまな場面で実際的な「被害」をもたらしている問題である。

他方で、「教え魔」問題の裏面には、「他者との望ましい関わりをうまく築けない者」が、どのようにして自分の存在価値や肯定感を獲得していけばよいのか――という重大な問題がある。自分がだれかにとって「プラスになる存在である」という実感は目に見えないものだが、私たちが社会的な生物として生きていくためには欠かせない栄養である。

コミュニケーション能力がますます重要視され、そこで暮らす人びとが他者にとって望ましい存在・望ましいふるまいをつねに求められるようになった現代社会では、「他者にとって望ましくない者・望ましいふるまいができない者」の居場所は加速度的に小さくなり、また「自分がこの社会でプラスの存在である」という実感を得られる機会も着実に乏しくなっている。

「社会的に望ましい関わりができない不快な人」の言動やコミュニケーションを加害――今回の場合でいえば「教え魔」――として定義して全社会的に糾弾して追放すればするほど、私たちの暮らす社会は、たしかに表面的にはますます快適さを増していくことは間違いない。

しかしその快適さは「他者にとって快いコミュニケーションができない人」の存在を排除し疎外し、彼らをますます生きづらくしていくことと表裏一体である。

「教え魔」は、私たちが快適な社会を望んでやまないからこそ、いま社会のあらゆる場所に現れている。