※この記事は2020年06月15日にBLOGOSで公開されたものです

5月、批評家の東浩紀さんを取材した記事を公開した。その中の一節はこうだ。

人が移動できないというのは、コミュニティも壊すし、親子関係だって壊しかねないすごいことです。

-- 『ネットの存在が思考停止を引き起こした』東浩紀が新型コロナ時代に考える人文知の価値

言うまでもなく、新型コロナウイルスの影響で移動が難しくなったことを前提とした発言だ。

この記事を公開する直前、ちょうど緊急事態宣言が解除される前に高齢の祖母が亡くなった。遠方に住まう祖母の葬儀に顔を出したいと思ったが、結局遠慮した。東京から数時間かけた他県への移動、高齢の参列者があつまる場、一人で行けたとしても、家には小さい子どもがいるなど、状況を考えると遠方へ行くという判断はできなかった。

判断の末に残ったのは、なんとなく後ろめたいという感覚だ。誰かに非難されたわけではないし、「仕方ない」と言ってくれる。ただ、幼少期にずいぶん世話になった祖母に最期のお別れができなかったという、心の底に残ったどんよりとした感情は、うまく整理することができないままだ。

行かないと決めたとき、冒頭の言葉がよぎった。これがもし親子だったら、どうだろう?場合によっては関係が悪化していたりするのだろうか。家族というのは、意外と脆いものなのかもしれない。いや、強固な関係だと思っているからこそ、揺さぶられ方によっては簡単に壊れてしまうのか。

在宅勤務で増えた家族との時間

新型コロナウイルス感染症によって、今のところ在宅勤務の日々が続いている。保育園も休園・登園自粛となったので、子どもは常に家にいるし、妻も在宅での業務を続けている。考えてみれば、これだけ長い時間を家族で過ごすのは初めてのことだ。

各所で言われていることだが、小さな子どもがいる中での仕事はなかなか思い通りにはならない。自室で原稿を書いている間にガチャッとドアを開けてきては「遊んで!」とせがまれるし、リビングから大きな音がしたと思い駆けつけると、おもちゃ箱がひっくり返っていたりする(これはまだいいほうだ)。

結局、ひっきりなしにくる何らかのリクエストを処理し続けることになる。妻とシェアするといっても、仕事をしながらでは限界もあるので、イライラが募ってつい怒ってしまうこともある。子どもにしたって、保育園で遊べないのはつまらないに決まっている。一方で、これまでは見ることのできなかった子どもや家族の一面を見ることもあり、それはそれで楽しかったりもする。家族というのはここまで忙しないものだったのかというのが最近の発見だ。

新たな家族との「日常」を考える

こうした風景は、新型コロナウイルスによって半強制的に「日常」となったものだ。緊急事態宣言の解除以降、少しずつ日常に戻ろうとしているとはいえ、まだまだ家族と過ごす時間は長く、離れた家族のことを考える時間も多い。必然的に、この毎日の中で、自分たちの家族観は少しずつ変わっているはずだ。

自分はといえば、オフィスのあった賑やかな新宿に行くことがめっきり減ったせいか、仕事のことを考える時間が確実に減り、そのうちの大部分が家族について考える時間になっている。こんなことを言うと怒られそうだが、これまで自分の中での優先順位は圧倒的に仕事が第1位だったが、なんとなく家族が1位タイくらいにはなっている気がする。

当たり前だが、「家族」というのは社会におけるもっとも原始的なコミュニティのひとつであり、そこには様々な課題が時代とともに表出している。たとえば親子関係。毒親と呼ばれる親の存在は、近年クローズアップされるようになった。DVにしても、メディアで取り上げられることが増えた。核家族化が進むにつれ顕在化した育児や介護は、働き盛りの世代にも直面している人が多い大問題だ。法律面で言えば、「我が国の家族のあり方に深く関わる事柄」として議論が進まないままの夫婦別姓が挙げられる。また、「家庭と仕事、どっちが大事なの?」なんて質問はとっくの昔にナンセンスになったものの、その両立が難しいのは変わっていない。

ポスト・コロナ、withコロナ、アフター・コロナ・・・言葉はなんでもいいけれど、当たり前だと思いがちな家族との関係を見つめ直すことになったこの時期はとても貴重なものであるはず。というわけで、この6月のBLOGOSでは「新家族論」と題し、様々な角度から家族について考えてみることにした。各所の尽力のおかげで、「家族なんてめんどくさい」と思っている人にこそ読んで欲しい記事があつまった。記事は随時公開していく予定なので、思い出した時にBLOGOSを開いてみてもらえればと思う。

【編集部・村上隆則】