「被災者にはつらいシーンがある。それでも…」佐藤浩市が映画「Fukushima 50」で見せた福島復興への思い - 岸慶太

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※この記事は2020年03月03日にBLOGOSで公開されたものです

東日本大震災と福島第一原発事故の発生から丸9年を迎える中、事故直後の福島第一原発で対応にあたった作業員や技術者の姿を描いた映画「Fukushima 50」(フクシマフィフティ)
が、今月6日に全国公開される。

映画は当時の吉田昌郎所長(故人)らの証言を基にしたノンフィクション作品を原作に、事故当時の原発構内の様子を克明に描き出した。大震災や原発事故の記憶の風化が懸念される中、今回の作品に期待される役割は何か。主演の俳優・佐藤浩市さん、監督の若松節朗さん(いずれも以下、敬称略)に話を聞くと、撮影における葛藤、福島の復興への思いが浮かんだ。

原作は、週刊新潮編集部副部長などを務めた門田隆将氏の著書『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発』(角川文庫)。門田氏は、事故から1年4か月後の2012年7月から、原発事故当時の様子に関する吉田所長の証言を記録してきた。

映画のタイトルは、事故後の第一原発に残った作業員約50人に対し、欧米のメディアが与えた呼称「Fukushima 50」に由来。佐藤は、第一原発1・2号機当直長だった伊崎利夫役、俳優の渡辺謙が吉田所長役を熱演。他にも、吉岡秀隆、緒形直人、火野正平、平田満、萩原聖人、吉岡里帆、斎藤工、富田靖子、佐野史郎、安田成美らが出演している。

事故直後の対応にあたった作業員は、当直長だった伊崎を含めて地元の福島出身者が多い。映画では、第一原発の事故を最小限に抑えようとしつつ、そのためには故郷に放射性物質を拡散させねばならない葛藤などを描いた。

――佐藤さんは当直長の伊崎利夫役です。どんな心構えで撮影に臨みましたか。

佐藤 僕たちは第一原発がその後どうなるかという結果を分かりながら、演じています。最悪な事態は避けられたという結果です。

しかし、当時第一原発にいた人はそうではなく、最悪の事態があるかもしれないと想定をしつつ、それを避けるために「自分たちに何かができるのではないか」との思いで残られました。そうした当事者の気持ちが作品を観る人に伝わってくれるためには何ができるのかと考えながら撮影に臨みました。

――伊崎さんのモデルとなった方自身も地元の富岡町出身です。映画では、原発事故に伴って故郷を離れざるを得ない地元の人の苦悩に思いを馳せたセリフも登場します。

佐藤 現場の原発で働く人は現地雇用の方が多いです。撮影に際して最初に思ったことは、伊崎さんなどそうした境遇にある方にとって、古里や家族の肩越しに国があったのか、それとも、国の肩越しに古里や家族を見たのか。どっちの思いから原発に残ったのかを考えましたが、分からないところがあった。それでも、考えながら数日間撮影していくうちに、きっとそんなことはどちらでもよかったんだなと思うようになりました。

原発事故の後は、おそらく家族や古里などへの思いがたくさんあったのだろうけど、あるときからそれは関係なくなっていった。何か自分にできるのであれば。それが何かはっきりとは分からないけれど、「そこにいることしかないんだよ」という思いになり、漠然と命題を把握していった。そういうことではないかと考えるようになりました。

大熊、双葉の両町にまたがって、6基の原子炉建屋が並ぶ第一原発。2011年3月12日に1号機、14日に3号機で水素爆発が起き、定期検査中だった4号機も3号機から放出された水素が流れ込んで爆発。1~3号機でメルトダウン(炉心溶融)する事態となった。

映画では、余震が続く第一原発構内で、作業員が2人一組となり、格納容器内の圧力を下げるために排気する「ベント」と呼ばれる作業に決死の覚悟で臨む姿が印象的だ。

そこでは、被ばくによるリスクを考慮し、若者よりも年配の作業員を優先する選別が行われた。その指揮を担う立場にあったのが当直長だった伊崎で、スクリーンからはその苦渋のかじ取りの様子が伝わる。

――当時の第一原発で何が起きていたのかは、きっちりと頭で整理しにくかった。映画では、それぞれの作業員が期待や苦悩などさまざまな感情を抱えながら対応にあたった様子が克明に伝わります。

若松 最大震度7の地震が発生してから、原発内で何が起きていたかということをほとんどの人が知らず、第一原発の中央制御室(原子炉サービス建屋内で運転を行うエリアで、今回の映画の主な舞台。通称「中操」)で何が起きていたかを克明に表現しなければならないと考えました。

メルトダウンまでの過程や、吉田所長のドキュメンタリーなどは結構ありますが、作業員の姿を扱った作品はほとんど世に出ていない。実際の第一原発の現場にいた人の証言を聞いたり、指示を仰いだりしながら撮影をすすめましたが、それでも想像で賄わねばならない部分は出てくる。その部分は、俳優、役者の熱い芝居のおかげで、ドキュメンタリーのように仕上がりました。

――実際に作業にあたった方の証言は貴重です。

若松 放射線に向かう作業員の人たちはプロフェッショナルだから、やはり放射線というものがどれだけ怖いか十分に分かっています。特に、線量というものに関しては、佐藤浩市さんをはじめいろいろな方と話しながら丁寧に扱いました。

事故への対応を指揮した吉田所長。そして、現場の最前線を率いた伊崎氏は電力会社の同期でもある。互いに性格や考え方を熟知し合った2人は、政府や東京本店の意向に翻弄されながら懸命に事故対応にあたる。

福島出身の伊崎氏に対し、吉田所長は福島が故郷ではない。それでも、東北の今後を思ってか、これまでの技術者人生で愛着も湧いた福島の歌を口ずさむシーンが出てくる。

――伊崎氏にとって、吉田所長とはどういった人物だったのでしょうか。

佐藤 自分が演じた伊崎氏という立場とは違い、現場のリーダーとして本店、まさに東京とのやり取りを担っています。現場の最前線の人間と東京との間にいる難しさがあったと思います。

逆に言うと、もともとは本店、東京サイドの人間であり、外から福島に来て、そして福島の歌を歌う。それが誰かに聞かせるためではなく、自分の中でふっと口に出てくるというのは、若松監督が見た吉田所長の位置づけだったのでしょう。さらには、そうした吉田所長の福島への思いが現場の人間に伝わったという点に、吉田所長の姿が集約されていると考えます。

――一方の伊崎氏は、福島が地元であり、さらには立場が下の作業員を守る立場です。事故を最小限にしたい思いと、福島に放射性物質を拡散させてしまう葛藤に揺れていました。

佐藤 作業員のほとんどの方が、地元の現地雇用です。隣町の誰々だとお互いを認識し、中学や高校の先輩だとかいった人間関係の中で生きてきた。おそらく、その難しさがあったのだろうと思います。

だからこそ、当直長という立場で、作業員や原発周辺の住民などみんなを守らなくてはならなかった。一方で、作業員に対して「自分たちがなぜここに残るのか」も分かってもらわなくてはならなかった。自分たちがここに残り続けることに正解はない。それでも、分かってもらわねばならない。そうした苦悩から、「(第一原発の最前線から)若い人は出ていけ、俺たちが残る」という言葉が生まれたのかもしれません。

各建屋の中央制御室や緊急時対策室を忠実に再現したセットを作り、度重なった水素爆発による混乱の様子など、事実にこだわった作品となった。2018年10月から19年4月にかけて撮影を続け、自衛隊や日本映画では初となるアメリカ軍の協力も得た他、「政治性を排した」点も特徴という。

ただ、製作側には一つ懸念があった。事故被害の当事者である福島の人たちに受け入れられるかということだった。地元紙・福島民友新聞社などの主催で、福島、郡山、いわき、会津若松市で試写会を行った。いずれの町にも、原発事故に伴う避難者が今なお多く生活している。

――震災から9年を迎える中、今回の映画は福島にとってどういった存在になるでしょうか。

若松 この間郡山で試写会を行いました。浩市さんと舞台挨拶をしているときに、目の前で30半ばほどの女性が涙をこぼしていらっしゃいました。最後まで映画を観てもらえるか、どう受け止められるかが心配でした。

でも、「原発事故や震災を思い出したけど、映画を作ってくれて本当にありがとう」という感想が多かったようで、やはり作ってよかったと思いました。僕らは今度は、こうした福島の人の応援を力に変えて、日本中、もしくは世界に発信していければいいなと。自信をもって福島の人に支えられながら発信していければよいと考えました。

佐藤 人間というのは忘れることができるので、何度傷を負っても命題を克服していくことや、ハードルを越えていくことができる。それは人間の素晴らしいところだと思うんです。しかし、忘れてはいけないんだということもあります。それを映画という形で記録に残していく。

福島の方々、被災された方々、被災された方を家族や仲間にもつ人にとってはつらいシーンがいくつもあります。でも、当時、リアルタイムで福島のことを知らない人が観たときに、現実のこととして捉えていただくことによって、未来にバトンが渡せるのではないかと信じています。

今回の映画では、大変申し訳ありませんが、ある意味で観る方、福島の方には踏ん張ることを強いたと思います。そうしたことも踏まえて考えると、僕らの思いを理解して最後まで映画を観た方々がそうした感想を残してくれたということが一番の励みになりました。

福島民友新聞社が1月23日に郡山市で実施した先行特別試写会。郡山には、原発事故当時には福島県沿岸部に住んでいたものの、事故後に移住し、さらには定住した人も少なくない。そうした人たちに映画はどのように映ったのか。

「あの日、誰もが自分のことで精一杯だったはずの中、命がけで頑張ってくれた50人の人たちがいてくれた今がある。私の知らなかった事実(この映画がなかったら一生知らないままだったと思う)がそこにあり、今も尚、頑張ってくれている人がいる。本当にありがたい。 私は、この映画を観て、震災後、あまり好きではなかった福島をほんの少し誇りに思えました。ありがとうございました。」(40代女性)

「当時、現職の公務員で、住民の方々と放射線のことで協議、対応していたことを思い出しました。 今、一線を退き、改めて当時を振り返ることができ、涙が止まりませんでした。 刻一刻と変化する現場と本店、政府の対応のかい離を改めて感じた。現場の技術者に改めて感謝する」(60代男性)

「今まで東電をひとくくりにして悪い印象でしたが、現場の方々の命がけの真実のドラマを知り、国民を守って下さった皆様に敬意を表したい」(40代男性)

総じて、作品への評価が高く、原発事故の風化を心配する声も多かった。

原発事故から9年近くが過ぎてなお、大勢の人が避難生活を余儀なくされ、第一原発が立地した大熊、双葉両町、近隣の浪江、富岡両町と飯舘村など7市町村には立ち入りが厳しく制限される帰還困難区域が残る。

映画「Fukushima 50」(フクシマフィフティ)は、9年前に福島第一原発で何が発生し、作業員が困難にどう立ち向かったのかを伝える。そして、事故に多くの県民が翻弄され、故郷を奪われたこと。さらには、福島が着実に未来へと歩み始めていることを考えさせられた。福島の被災地のことを忘れてしまったら、復興へ向かう足は鈍る。

――復興を目指す福島へのエールをお聞かせください。

若松 今も風評被害などさまざまな課題があり、そうしたものがいち早く克服できることを願っています。日常の生活にどうしたら戻れるのかという点が、みなさんの望みなのかもしれません。それは国がやるべきことなのか、被災した人たちにどうしたら何かエネルギーをもっていただけるか。今後も考え続けていきたいと思います。

佐藤 9年が過ぎて、「故郷に戻っておいでよ」と言っても、新しい土地で生活の基盤を築いた人が戻るということはなかなか難しいのも実情だと思います。福島という土地がこれからさらに魅力的になって、その地に新しい人を呼び込めるようなエネルギーをもっていただきたいなと期待しています。