なぜ交際状況や人間関係が中心に? “Mr.マトリ”が抱く芸能人の薬物報道に対する疑問 - 岸慶太

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※この記事は2020年02月26日にBLOGOSで公開されたものです

日本は世界の薬物犯罪組織から格好の「市場」として目を付けられ、ネット社会が進むにつれて違法薬物はさらに蔓延していく――。そう警鐘を鳴らすのは、元関東信越厚生局麻薬取締部部長の荑戸晴海さんだ。

40年近く麻薬取り締まりの第一線で活躍した経験を初の著書『マトリ 厚労省麻薬取締官 (新潮新書) 』にまとめた。“Mr.マトリ”の異名をとる荑戸さんに著書に込めた思いを聞くと、薬物報道の改善点や薬物への危機感が薄れる背景など、違法薬物をめぐる課題が浮かんできた。

厚生労働省に所属するマトリ 離職する職員も少なくない

――“マトリ”という言葉はよく耳にしますが、業務の様子はなかなか見えてきません。

意外と思われますが、厚生労働省に所属しています。

なぜ厚労省か。麻薬というものは、医療上極めて有用で、医薬品として絶対に不可欠です。ところが、いったん濫用されると、個人の健康被害だけではなく、家族や地域社会、国家に影響を及ぼします。

こうして、麻薬を監視するという観点から、厚労省に所属しています。現実の業務としては、麻薬等薬物が不正でも正規でも、これから派生する多くの問題に対応する専門機関です。

――麻薬取締官を志して入省する人が多いのでしょうか。

現在は65%ほどが薬学部を卒業していて、やはり麻薬取締官を目指して入ってくる印象です。国家公務員を就職先と考えて入省し、麻薬取締官の業務に次第に魅力を感じる人もいます。

離職率が高いのが実情です。というのも、改善はされてきましたが、仕事が非常に厳しい。時間的な制約もあり、ある程度の年齢になると転勤が多い。全国津々浦々に赴きますからなかなか生活が落ち着かない。こうしたことで、離職する職員も見受けられます。残念ですが、彼らの気持ちは良く分かります。

――荑戸さんがマトリを志したきっかけは。

アメリカのテレビドラマ、日本の刑事ドラマ、映画を見て、捜査官にあこがれを抱いて、おぼろげに自分はそういう世界に行くものだと思ったのでしょう。途中から麻薬や覚せい剤を意識しだして、いろいろな選択肢から薬学部を選択した。

薬学部に入って、一年草の「けし」という植物が人間を狂わせたり、医療に必要な成分が含まれていたりすることを学んだ。こんな草があるのかと驚愕しました。こうして学ぶ中で、私が捜査官として目指すものが麻薬取締官だと分かった。体を動かすのも好きで性に合うし、憧れからこの世界に入ったということです。

当時はもちろん、麻薬取締官が厚労省とは知らなかった。警察だと思っていて、就職活動で初めて知りました。薬学部を卒業したら、製薬会社や病院、調剤薬局、自治体の健康福祉部に進む人が多かったです。

各道府県警とは不仲? 「違う。連携もばっちり」

――特別司法警察職員として拳銃の携帯も認められている中、警察の組織犯罪対策課とよく比べられます。組対との違いはどういった点にあるのでしょうか。警察と張り合っているとも言われていますが。

まず視点が違います。マトリは治安対策機関ではなく、薬物に特化しています。希少な薬物や、濫用の実態が確認されたものは、すべて情報収集し摘発する。同時に警察も目を付けていたら、協力して同時に捜査します。

警視庁では組対5課が違法薬物を扱っています。よくマトリと組対は張り合っているなどとネットに書かれていますが、それは違う。連携もばっちりです。多くの面で支援も受けています。これはどこの道府県警とも。警察は、人の生命と財産を保護する巨大な治安対策機関で、私たちは健康被害の防止、保健衛生の向上が主眼という点で違いはあります。

よく驚くのが、例えば5課が芸能人を逮捕すると、「今度はマトリが●●を逮捕する」とか出ますよね。ネットとかスポーツ紙とかに。あれはいつも驚くんです。

ネット社会で捜査はより難航 隠文字を地道に解読

――著書では、捜査がますます難しくなっている現状を指摘しています。

グローバル化に加え、インターネット社会となったことが大きな要因です。ネットは違法薬物の売買の舞台として存在感を増していますが、サーバーは世界中にある。世界各国が対応を考えているが、世界レベルで同時に整備するとかしないと、ことごとく闇の世界に入ってしまいます。

情報開示などを求めても、特に海外プロバイダーは反応が遅い。例えば、アフリカなどにあれば痕跡をたどるのは本当に難しい。ネット自体が進化の途上にある。

ネットでの違法薬物の売買と言えば、かつては掲示板が使われていたが、今はSNSが主流です。Twitterが使われ、隠語、さらには「隠文字」が使われていると。どれも、さらりとしたキャッチコピーですが、落とし穴があるわけです。

進んでいるのは絵文字です。例えば、“自転車”の文字は「コカイン」です。コカインはチャリなのです。

“チャリ”からチャーリー。チャーリーシーンは俳優ですが、コカイン問題で世間を騒がせました。こうしたことを年取ったいいおっさんが読み取らないといけないんです。他にも、丸い虹のマーク。これは虹、幻覚、LSDです。

おそらく今後も進化していきます。TwitterからTelegramに誘導し、客にTelegramのアプリを入れさせる。密売人はメッセージが消える時間を設定しています。だから、ガサ(家宅捜索)を打ち込んでパソコン、スマホを押収しても何も残っていない。アプリが犯罪に使われてしまっている現状がある。

――今後も、違法薬物の売買の現場はネットが主流になる。

SNSのデジタル性被害もそうですが、すでに多様な犯罪の温床になっています。子どもたちを守るためにも、大人たちはその落とし穴と危険性を理解しなくてはならない。

捜査官の興味は“押収”に対して 道は踏み外さない

――例えば、警察の暴力団担当刑事は暴力団に接するにつれて、犯罪に手を染める人もいます。こうしたミイラ取りがミイラになるケースはマトリにも当てはまりますか。

まず、ありません。マトリは人数が300人ほどで、常時現場に出ているのが200人。取締官の監視ができるし、薬物を業務として取り扱っている捜査官は、薬物の効果や作用には全く魅力を感じない。魅力を感じるのはブツの種類や形態、そして押収に対してです。

覚せい剤というのは、末端小売りの段階では多くが0.2~0.3グラムの小さな結晶が袋に入っています。でも、こぶしのような結晶を見つけることがあります。100キロ単位で密輸したものの一部か、小さく割れていく前の20、30グラムあるものです。それを見つけた時の感動は凄いですよ。「綺麗な水晶だ」「でかい」とか、盛り上がるんです。

例えば、ペーパーLSDは 紙で大きくて5ミリ四方で、大きくても1センチ四方。それを舌に載せて成分を粘膜吸収させる。いろんな模様や図柄があります。海外出張の際、「芸者ガールズ」「相撲レスラー」など日本の伝統文化を図柄にしたものを見たことがありますが、これには驚きました。取締官はそういう薬物自体に興味があるんですよ。

――違法薬物の危険性に対して事前に十分な知識があるからでしょうか。

薬物の効果や効能から、体内でどう代謝し、尿に分解されるかもまでみんな知っている。そんな危険な薬物を追って押収し、組織を壊滅するには、経済的な打撃を与えないといけない。そのためには、現金や預金といった金の捜査もする。そこに凄い情熱があります。

「日本はアジア最大のマーケット」 深刻に受け止めるべき

――覚せい剤について「日本はアジア最大のマーケット」と著書にあります。

一層深刻に受け止めたいのは、それは我々が口に出したことではなく、海外の捜査機関が言っているという点です。最初は驚きましたね。

日本では、覚せい剤の値段がまず高い。さらには、日本に持っていけば必ず売れる。こうしたことから、国内にはかなりの濫用者がいると推測できます。それでも、統計上の濫用者や密売人、犯罪組織の数は愕然と少ない。ネット化で売買の現場がより巧妙化、複雑化、潜在化すれば、検挙できないものも増えます。

――違法薬物と言えば、繁華街で顔なじみの売人から買うというのがイメージでした。

そうした売買の仕方は今でもあるが、減っていっています。地域の防犯活動も進んだし、暴力団含めた周辺者も暴力団対策法や暴力団排除条例の効果で減っています。加えて、地域自体が浄化しようという機運も高まっている。

西成にも今回の本のために、記憶を思い出そうと10日ほどドヤに泊まりました。若いころとは全然違っていました。

銭湯で刺青覚え、パチンコ屋も熟知 西成での新人時代

――著書では、新人当時に赴任した西成で、身に危険が迫った経験も明かしています。

危険というものは、現場にいる時はあまり感じないものです。緊張感をもって意識を明確にして動くと、安全運転が防衛運転に代わって、肌で危険性を感じられる。そのためには、現場を熟知することに加え、自分がいる街がどんな街かを知らなくてはならない。

どんな人がこの街にいるかを知るために、銭湯でヤクザの刺青を覚えようともした。これは、仕事ではなく求められた作業ではなかった。自分自身の仕事のために自ら動くことを心掛けていた。

同じ街でも雨風が吹けば普段と全然違うし、曜日が変われば人通りも変わる。そういったことを全部知らなければならないし、「あの一本橋を渡ったとこ」「あそこのガード下」とか言われて、それが何を指すのかをすぐに理解できないといけない。「あのパチンコ屋」にはどんなヤクザがいるかも知らねばならない。基礎知識です。

――西成は暴力団が入り組んでいる。

西成、とりわけ釜ケ崎での違法薬物の売買は、地域ごとの区割りの上に、時間割もあるんです。私が大阪で課長をしているときに、警察と協力して徹底的に調査しました。密売人が組織にシャバ代を払って密売している。そんな構図が浮かび上がって、綺麗な図面が仕上がりました。

日雇いの労働者が多い街ですから、小銭が動いて、小さな丁半バクチが始まる。バクチで勝てば、酒も飲むし、盗品が並ぶ泥棒市も出てくる。そうすれば、周辺に怪しいやつが来るし、薬物も蔓延してしまう。週末には他府県ナンバーが山ほど来てました。

求められる“人間力” 聞き上手で柔軟な姿勢を

――そうした地道な捜査を支えるのが「人間力」と指摘しています。

総合的にみると、有能な捜査員というのは人間力が豊かです。人間力というのは、聞き上手で非常に柔軟。決して強面ばかりが通用しません。やはり、物腰が柔らかくて緊張を緩和できて、相手の話を聞きだせる。取り調べでも、情報収集でもそうした力が不可欠です。

やはり人の力です。感情をコントロールする力もそうですし、上になればなるほど汗をかいてきつい仕事を全部引き受けるべきです。捜査員が現場に行ったら使った茶碗を洗ってやり、車を洗車してやる。そんな意識が必要です。

――前書きには報道への注文も記しました。

だいぶ改善されましたが、著名人が薬物関連で逮捕された時、連日の報道の中で周辺の人物がどうでどんな交際をしていたとか話題の中心が“個人”になってしまう。

伝えてほしいのは、多種類の違法な薬物があって、それが蔓延する環境があり人がいる、薬物は危険で、依存症は辛い慢性病であるとか、本質的なことです。これを繰り返し伝えて頂ければ薬物乱用防止に一定の効果がでると思います。著名人の逮捕は、薬物の危険性に目を向けてもらう報道ができる貴重なきっかけです。そのためには、メディアがどういう取り組みをすればいいのかを考え、そういう情報をどんどん発信してほしいと思います。

「危険だから犯罪だ」の認識を社会全体で共有

――薬物の危険性自体に着目すべき。

濫用というのは何か。本来の目的を逸脱して、医薬品等を摂取することです。

濫用する薬物は不正なものでも正規の医薬品であっても、中枢神経に作用することを求めてしまう。そうすることで、依存が始まる。「欲しくて欲しくて仕方がない」という生理的な現象から、常習すると個人差はあるにせよ慢性中毒になる。

努力して、その報酬として喜び、快感を得る。恋愛も仕事も大学入学も、本当に苦労してその結果を得る。薬物はその苦労なくして結果を持ってきてしまうものです。だから怖い。

依存症の人は施設に入ったり、治療を受けたりして、社会に戻ろうとしています。それを理解して、地域社会全体が回復と社会復帰を支援しなければならない。

濫用の始まりであっても慢性中毒まで至っても、その間に薬物を大量摂取したり、いくつかの薬物を合わせて一緒に摂取したりすると、急性中毒になって呼吸困難を起こしたり、あるいは体が硬直して交通事故を起こすなどしてしまいます。

確かに、法律で規制されているから犯罪です。同時に、「薬物をやっているイコール犯罪者」ととらえるのではなく、「危険だから犯罪だ」との認識が広まることが重要です。重篤な健康被害や2次犯罪まで行かないように社会全体で防がなくてはならない。

その一方で、危険ドラッグの例に見るとおり濫用者が運転する暴走車に跳ねられて亡くなった方がいます。刺傷された方も。このような悲惨な2次犯罪の被害者がいることは絶対に忘れてはならないとも思うのです。

需要の削減が必要 メディアの役割大きい

――日本各地で連日のように逮捕者が出ているが、さらなる捜査のため当局が発表できない案件もある。覚せい剤が身近に迫っているという意識を社会が共有しにくい。

覚せい剤や違法薬物のトレンド、傾向はどういったものかなど、報道側が自ら調査して取材をすることが大切だと考えます。と同時に一過性のニュースで終わって欲しくない。

捜査機関は、売人や密輸した人物など周辺の関係者を検挙するため、密行の原則で捜査を進めます。被疑者には逃走や証拠隠滅の可能性もある。しかし、著名人の場合は分かるわけです。突然姿を消してしまうわけですから。その意味でも、著名人の逮捕は社会へのインパクトがあり、報道する側は有意義な伝え方を模索してほしい。

捜査側の取り締まりだけでは、薬物犯罪や濫用はなくならず、需要を削減しないといけません。それに協力してくれるのはメディアです。危険ドラッグとの時は、メディアの強い後押しがあって国民全体の撲滅への機運が高まりました。

――最近は人気俳優やスポーツ選手など、若い人と距離が近い人の検挙も目立ちます。

大麻やMDMAの場合は、ミステリアスで、ファッション性が高く、アーティスティックな薬物との印象があるようです。そこにネットで無責任な情報が広がり、薬物に手を出しやすい環境が生まれる。

覚せい剤と大麻はどう作用が異なりどんな障害が出るのか。そうした正しい知識が不可欠で、きちんとした報道が必要です。特に、若い人の大麻に対する危機感が低下している。

対岸の火事ではない 正しい知識を

――世界で薬物使用者は年間243万人増えています。違法薬物に出会わないための心掛けを教えてください。

海外の事案も対岸の火事と考えず、まずは違法薬物について何が起きているのか事実を知ることです。そして、正しい知識を身に付けて、ネット上を含めて薬物に関わるすべてについて、その危険性とリスクを地域や職場で考える土壌ができることを願っています。

平成に入って国や自治体がかなり力を入れたため、学生や子どもへの濫用防止の教育はかなり進んだと思います。ところが、今、徹底すべきは社会人への周知です。社会人になれば、金を得て脇も甘くなる。享楽的な思考が生まれることもあれば、同時にストレスもたまる。すると隙ができて危機感も下がる。企業の採用時など入り口だけではなく、定期的に部下の様子をチェックするとか薬物問題を考えさせるなどそういう制度も必要でしょう。

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荑戸晴海:1956年福岡県生まれ。明治薬科大学薬学部卒業後、80年に厚生省麻薬取締官事務所(当時)に採用。関東信越厚生局麻薬取締部部長、九州部長などを歴任し、2018年3月に退官。13、15年に人事院総裁賞受賞。