※この記事は2020年02月20日にBLOGOSで公開されたものです

野村監督か…、あの方は昭和10年(1935年)6月生まれ、おれは昭和11年3月生まれ、学年が同じなんだよ。だから生きてきた時代がまったく一緒の同世代。同じ日本を見続けてきた、80過ぎのジジイ同士。ああ、同じ世代だったんだなという感慨があるね。

プライベートでも「野村節」は健在

野村さんとは何度か会ったことがある。おれもプロ野球関係者とは色んな付き合いがあるからね。なんかのパーティーで一緒のテーブルになったことがあってさ、おれは大の巨人ファンだったからアンチ巨人の野村さんと同席は居づらいなって思ってたら、いきなり向こうから嫌味を言われたよ。野村さん、おれの顔を見てボソリと「ジャイアンツファンがいるなぁー」だって。ささやいてきたよ(笑)。そういうことを言ってくるんだよ(苦笑)。

腹にためておけないんだろうけど言い方がネチッとしてたよ。でも、あれが野村さんのコミュニケーションなんだろうね。皮肉とユーモアが混ざっててね。言われた方はどうしていいか一瞬戸惑っちゃうよ。その時おれはこう返したんだ、「いやいや、おれはジャイアンツファンじゃなくて、プロ野球のファンですよ」ってね。苦しまぎれの言い訳だね。野村さんも「フン」って鼻で笑ってたよ。おれは何だか嫌な汗をかいたっけ。

野村さんから麻雀に誘われたこともあったな。あのひと、よくご自宅で麻雀やってたんだ。だけどおれ、行かなかったね。だってさ、野村さんと麻雀打って、こっちが満貫でも上がろうものならずっとグチグチ言われそうだろ。「あそこであんな牌を切っといて満貫あがるかねえ…」なんて分析されたりしてさ。勝っても負けてもスッキリしない麻雀だろうなって。

野村さんって超一流のプロ野球選手であり、名監督であり、すごい人物であり、その成績や功績はもちろん認めるけど、じゃあ、一緒に膝付きあわせて飲みたいかって言ったら、おれは遠慮するよ(苦笑)。離れたところで見るぶんにはいいけど、おれにとっては苦手なタイプだったかな。

世間から見て取っつきにくい、口が悪くて大変そうだって人物で言えば立川談志がいたけど、おれは談志とは親友だった。談志はこっちが耳の痛いことをズバズバ言ってくる実に憎たらしい男だったけど刎頚の友だった。まあ人間同士、ウマが合うか合わないかってことなんだろうね。

王貞治・長嶋茂雄の影に咲いた月見草

しかし野村さんは日本のプロ野球にとって大人物だったな。戦後のプロ野球が巨人一色、セ・リーグ中心だった中で、パ・リーグからよくぞ出てきたよ。当時の南海ホークスも名チームなんだけど、国民の関心や人気で言ったらパ・リーグのチームってのは、ホントにマイナーだったもんな。ものすごい格差があったよ。

セ・リーグのチームならシーズンを通して巨人との試合がテレビで放送されるから、まだマシだった。だけどパ・リーグだとさ、リーグ優勝して、日本シリーズで巨人と対戦して、そこで初めて試合がテレビ中継されるってなもんだったよ。新聞では試合結果が出てるけど、動いてるのを見るのはそこでようやく、というね。年に一度の生存確認みたいな(苦笑)。

野村克也という野球人がこれだけ大きな存在になったのは、やはり王さん長嶋さんがいたことに尽きるんだろうな。ヒマワリと月見草の例えに集約されるよ。野村さんが言ったセリフ、ちょっと編集部、載せてくれる?

<野村克也 1975年5月22日 600号本塁打達成後のインタビューにて>
「自分をこれまで支えてきたのは、王や長嶋がいてくれたからだと思う。彼らは常に、人の目の前で華々しい野球をやり、こっちは人の目のふれない場所で寂しくやってきた。悔しい思いもしたが、花の中にだってヒマワリもあれば、人目につかない所でひっそりと咲く月見草もある」

王さんは早稲田実業で甲子園に出てるし、長嶋さんも立教大学で六大学のスターだった。ヒマワリは最初からまぶしい太陽の光を浴びていたんだな。比べて野村さんは京都の峰山高校という無名校。野球部も弱小でまったくの無名選手だった。だけどドラフトのない時代に新人の原石を探し歩いていた南海ホークスの鶴岡一人という名監督にプレーを見てもらえたんだよな。そこから野村さんはテスト生で南海に入ったんだ。当時は月見草にもならない、ぺんぺん草だよ。

まったく無名、しかも入団の契約金ゼロという無一文で南海に拾われて、そこから這い上がっていくわけだ。そうして史上二人目、戦後初の三冠王を獲るわけだから、とんでもない這い上がりだね。三冠王は、史上三人目が王貞治さん。長嶋茂雄さんは三冠王を獲れてないんだ。

パ・リーグに野村克也という人がいたことで、王さん長嶋さんというスーパースターがより光った。光と影だよね。野村克也という影がすごく濃かったから、王さん長嶋さんが余計に明るく輝いて見えたんだと思う。

満員の球場とガラガラの球場で打つホームランは意味が違う

でね、史上四人目の三冠王が落合博満さんなんだ。この落合さんに聞いたことがあるんだけど、王さん長嶋さんはホームラン打っても打てて当たり前だって。満員の後楽園球場で4万人のファンに囲まれてプレーできるんだから、やる気がまったく違うんだと。

落合さんはロッテの川崎球場で、外野スタンドはガラガラ。ホームランを打っても誰もホームランボールを取りに行くヤツがいないスカスカの環境。そういう場所でホームラン打ってやるぞっていうやる気を起こすのは大変だって。満員の後楽園とガラガラの川崎球場では、集中力もモチベーションもまったく違うって。

確かにそうだよな。おれもさロッテの川崎球場に何度か行ったことあるけど、確かにガラガラ。外野で若いアベックが肩抱きあってたりしてさ、そんな所にホームラン打ってもボール取りに行かないよ(苦笑)。比べて後楽園の外野はさ、子ども達が手にグローブはめて見てんだ。みんな王さん長嶋さんのホームランボールを捕ってやるぞって目を輝かせてるんだ。選手だったら、そんな外野の光景を見たらホームランかっ飛ばしたくなるよ。川崎のガラガラの外野見たらあそこまで飛ばさなくてもヒット打てりゃいいかって、萎えちゃうよ。

だから落合さん「誰も見てないグランドでホームランを打つのには本当の力が必要だ」って言ってた。落合さんは巨人も経験してるから、その実感はリアルだと思う。プロ野球選手ってさ、自分のカッコいいプレーを観客に見られて、ウワーッていう大歓声を浴びたくて、キャーキャー言われたくて、それで年棒を稼ぎたくて選手になってるんだもん。大勢の観客に見られて、その環境に背中を押されてかっ飛ばすって、あるよ。

そこでさ、プロ野球の通算本塁打数をちょっと見てみようか、

1位 王貞治  868本
2位 野村克也 657本
3位 門田博光 567本

あのさ、環境がもたらすモチベーションの差を考慮すると、パ・リーグでのホームランはセ・リーグの1・5本分って考えてもいいんじゃないか? そうなると…

1位 野村克也 985本
2位 王貞治  868本
3位 門田博光 850本

アハハハハ、野村さんが歴代1位になっちゃったよ。ちなみに落合さんは通算510本だから1・5倍で換算すると765本。王さんがハンク・アーロンの755本を抜いて達成した756本よりも上に行っちゃう(笑)。

女房に先立たれた男はつらいよ

野村さんは奥さんのサッチーが2年前に先に逝ってから、ガックリと衰えちゃったんだよな。これはホントに高齢者夫婦の典型だよ。歳とってから奥さん亡くすと、残された旦那の方は平均して5年で亡くなるんだって。でね、逆に旦那の方が先に亡くなると残された奥さんは平均25年生きるってさ(笑)。

女性の方が生命力強いの。落ち込みの尾を引かない。さっぱりと現実的になって自立できる。そうしてその後の人生を謳歌しちゃうんだ。男がダメなのは奥さんに依存し過ぎてるから、ずるずると尾を引く。普段から奥さんに頼ってばかりだと、支えてくれる人がいなくなったとき、自立できずにどんどん弱っちゃう。

これね、日常の身の回りのことだけでなく、奥さんという頼れる存在を失うと、精神的にやられちゃうんだよな。一番身近な理解者を失うってことなんだ。話を聞いてくれる人、自分を理解してくれる人がいなくなると、結果的に気持ちの行き場を失ってストレスを溜めこんでいくことになる。

野村克也さんがさ、サッチーが世間でどれだけ批難を浴びようが、おれには大事な女房なんだって言って、サッチーをかばって頼りにしていたのは、やはり野村克也というすこぶる面倒な人間を一番理解してくれる存在だったからだろ。その愛妻を失ってしまったショックというのは、とてつもなく大きかったんだよ。

そうして野村さんはサッチーに呼ばれたんだろうね。愛妻のいない余生を長く寂しく過ごすよりも、早く同じ処へ行くことになったのは、いいエンディングだったのかな。

おれはおれで、普段からカミさんに頼り過ぎてるところを、今からでも少しずつ改めていかなきゃなって思ったね。カミさんへの依存を減らしていく、この考えに異存はありません! なんてな(笑)。

(取材構成:松田健次)