書くことは看板を掲げること - 紫原 明子
※この記事は2019年11月06日にBLOGOSで公開されたものです
過去の記事(「不揃いは認められない」人間が人間のまま働くことが難しい社会)にも書いていますが、5ヶ月前に、オフラインサロンもぐら会と銘打ったグループを作りました。活動のメインは月に一度、集まってお話をすることですが、この会の中で希望される方には月に1本、文章を書いてもらっています。
取り組んでくださっている人の中には、普段から文章を書いているライターの方もいれば、普段は全く文章を書かないという学生やサラリーマン、主婦の方もいます。発足当初はみなさんからどんな文章が出てくるのか全く想像がつかなかったのですが、締切日前後に続々と上がってきた原稿は、どれもご自身と真摯に対峙された末に生み出されたのだと分かるまっすぐなものばかりで、嬉しい驚きがありました。きっと、書いてくださった皆さんも、生み出すことの苦しみのみならず、未知だった自分を発見した手応えを、多少なりとも感じてくださったのではないかと思います。
一方で2回、3回と続けていく中で、毎回そこに同様の大発見が続くかというと、やはりそういうわけにもいきません。何しろ初回で見つかった自分の言葉というのは、その原稿に取り組んだ1、2週間の間に生まれたわけではなくて、それまでの20年、30年というそれぞれの長い人生の中で、ゆっくりと培われ、次第に存在感を増し、もういい加減地上に顔を出したいと地面のすぐ下でむくむくうごめいていた言葉です。たまたま書く機会という単純なスコップを手にしたことで掘り出すに至っただけなのです。
もしかしたら、人によっては2回目くらいまでそんな風に、これまで育ててきたものたちの、気持ちの良い発掘作業が続くかもしれません。でも、機会を得たからという理由だけでポロッと収穫できる大物は、残念ながらそんなに沢山眠っているわけではなく、長く書き続ける上ではどうしても、深く掘って見つける、それ以外の目標やアプローチが必要です。
そのために私は、書いていく中で何を目指すか、どうなっていきたいかを折に触れてみなさんに尋ねるようにしてきました。「自己開示ができるようになりたい」「自分の感情を言語化したい」「プロとしてメディアでコラムを書きたい」など、みんなそれぞれに目標があり、一人ひとりの願いに応じた取り組み方を考えていく中で、最近急に、そうはいってもやるべきことはみんな同じだったのだ、ということに気がついたのです。
それは何かというと、端的に言えば、沢山の人に読まれることを目指す、ということです。
自分の書いた文章が看板になる
何をそんな当然のことを、と思われるかもしれませんが、とりあえずの“バズ”を目指すことには結局のところ百害あって一利なし、という残酷な事実は、もう随分前に発見され、最近ではかなり広く知られるようになってきました。タイトルで釣ったり、過激なことをしたり言ったり、フォロワーの期待に過剰に応えようとしたり。自分がやりたくもないこと、言いたくもないことで注目を集めたとしても、それが長く続くはずはなく、普通の人が一度そこに手を染めたら、何かを得るどころか、身を削り続けるよりほかない。そういうことを、ある程度ネットを使っている人なら、もはや一般教養として知っている時代に突入しました。
だからこそ、上品で真面目で聡明な人ほど、無理してより多く読まれようとしなくてもいい、自然体でやればいい、と考えてしまいそうになります。が、それはやっぱり違うのです。嘘をついたり、過激なことをしたりして注目を集める必要はないけれど、でも、自分が本当に知ってほしい自分、伝えたい思いや思想が、より多くの人に、より深く届く、そのためにできることというのは、むやみやたらにバズを狙うこととは別にちゃんとあって、書き手としてそこに手を尽くすことは、当然必要なことだと思うんです。
なぜなら、自分の書いた文章というのは、自分の看板だからです。
ガソリンスタンドがレストランの看板を掲げていても、ご飯を食べようとやってきたお客さんはガソリンしかない事実に困惑してしまいますので、ガソリンスタンドは正確にガソリンスタンドの看板を掲げていなければなりません。内容に虚偽のない看板を、より高く、より大きく立てておけば、ただそれだけで、その看板に興味を持ったり、自分に関係があると感じたりした人たちが、向こうから勝手に集まってきてくれるのです。ガソリンスタンドにガス欠のお客さんがやってきてくれたら、助かった、と笑顔を見せてくれるだけでなく、ときには「ついでにこの店でコーヒーでも売ってみたら?」「あっちにもう一店舗出してみたら?」と新しい可能性を示唆してくれたりもするかもしれません。
自分の中で掘り出した収穫物を、自分だけの宝物として大事にとっておくのも、もちろん悪いことではありません。でも、すべてそうやって一人で抱え込んでしまうのでなく、これは、と思ったものを、勇気を出して人前に出す。できれば、より多くの人の目に触れるように最大限工夫して出す。すると、それに惹かれて集まってきてくれた人たちは、自分だけでは決して発見不可能だった、自分の新しい可能性を見出してくれたり、それまで見たことも聞いたこともないような新しい世界に連れて行ってくれたりもします。そして、そうやって新しい世界に足を踏み出したら、そこでまた、自分の中の畑に新しい作物の種が撒かれ、再び時間をかけて、新しい作物を、地中深くに育てていく。私はこれが人間としての営みの基本で、書くことはそんな営みに付随するものではないかと思うんです。
文章をお金にしていくということ
一見するとこれでは、書くことをコミュニケーションツールに使っているだけのように思えるかもしれません。でも、お金をもらってコラムを書く人になりたい、という人にも、やっぱり同じことが言えると私は思います。
お金をもらってコラムを書きたい、と言う方に、ではどんなメディアで書いてみたいですか? と尋ねると、案外、具体的な媒体名は出てこないのです。どこで書きたいかがイメージされている方が、当然目標までは近道なのでしょうが、名前が出てこない事情も決して分からないでもありません。というのも実際、ネット発の書き手がコラムの連載をもたせてもらえるようなウェブメディアというのは、今やそんなに多くないからです。
マネタイズの難しさが一向に解決されず、一時ネット上に無数に登場したオウンドメディアも、今年に入り続々と閉鎖しています。これに加えて、質の良いコンテンツを手間ひまかけて作り出せる老舗の雑誌やスキャンダル報道の得意な週刊誌がいよいよネット上で本格稼働を始め、著名人の含蓄ある読み物や、つい見てしまう下世話なスクープがどんどんインターネットに出ています。他方で、Amazon Prime VideoやNetflixなど、さまざまな動画サービスもまた、面白さの計算し尽くされた動画コンテンツを次々と公開します。私達の隙間時間が熟練された時間泥棒にみるみる奪われていく中で、手を伸ばせば届く場所にいる書き手によるコラムというのは、残念ながら、以前ほど必要とされなくなっているように感じます。
書けるメディアがなくなる、メディアで書いても読まれなくなるというのはつまり、文章でお金を稼ぐ=原稿料をもらう、というシンプルな構図でやっていくことが難しくなるということです。だからこそこれから、書いてお金を稼いでいこうと考えるのならば、どこで、何をどんな風に書いて、どうやってお金にするのか、その仕組みそのものを、ゼロから自分で考えなければなりません。幸か不幸か今、日々沢山のウェブサービスが出てきているし、それらを思わぬ形で使った新しい形のコンテンツもたくさん発明されています。
たとえば、YouTubeには最近、LINEのやりとりの体裁でテキストが流れて物語が進む、短編小説のような動画が沢山アップされています。現状、多くはワンパターンの展開で、拙い文章で進みます。でも、だからこそそこに書き手の工夫の余地がないとは決して言い切れないと思います。ライターの夏生さえりちゃんは、随分前からInstagramで写真とともに手書き日記をアップしているし、同じくライターのカツセマサヒコ君も、Instagramで短い小説を書いています。
そういうのは自分とは関係ないインフルエンサーの仕事だから、なんて思うのでなく、物書きだっていよいよ本腰を入れて、新しい表現の場や形、新しいビジネスの形を考えていかなければなりません。そんな私達が、ひとまずのところやっておくべきことというのも、やっぱりまずは、看板を立てることだと思うんです。
自分がどういう考え方を持っていて、どんな世界を提示することができるのか。すでに沢山の人が集まっている場所に、まずはそれが分かるような看板を立てておく。そこで少しでも集まってきてくれたお客さんを大事にして、そこからいずれ、より自分にとって最適な表現ができる場所が見つかれば、そこにお客さんを連れて行く。
私達は毎日忙しく、ネットにはすでに食傷気味になるほど沢山の情報が溢れているけれど、それでも「出会えてよかった」と思えるようなコンテンツとの出会いは決して多くはありません。誰かが真摯に自分と向き合って、沢山の葛藤や煩悶の末、ようやく掘り出した宝物のような文章には、同じように長らくそれを必要としていた人に「出会えてよかった」と、しみじみと言わしめるだけの、強力な力があると私は思っています。だからこそ、そんなあなたの文章との出会いを待っている一人でも多くの人に、しっかりと届くものを作る。そのための努力を、惜しんではいけないのです。