映画『JOKER』が描いた「誰からも見えない人間」の闇 - 紫原 明子
※この記事は2019年11月01日にBLOGOSで公開されたものです
ミュージカル『CICAGO(シカゴ)』の劇中歌に「Mr. Cellophane(ミスターセロファン)」という曲がある。この曲を初めて聞いたとき、私のことを歌っていると思った。
Mr. Cellephaneは、残念ながらあまり冴えないおじさんが、思いを寄せる女性に一向に見向きもしてもらえないことを嘆く悲しい曲だ。大声を上げれば、足をジタバタさせれば、うるさい鶏の真似をすれば、周囲は誰かがそこにいると嫌でも気がつくだろう。いや、そうまでしなくとも、普通なら、人の目から見えなくなるなんてことはない。普通なら。でも、自分だけは違う。何をしたって、自分だけは誰の目にも映らない。無色透明の、セロファンのような男だから……という歌詞になっている。
この曲を初めて聞いたとき私は20歳で、結婚して2年目、長男を出産して1年目、という頃だった。私は専業主婦で毎日赤ん坊の息子と二人、家にいて、当時の夫の帰りを待っていた。一方夫は、結婚直後に始めたビジネスがいよいよ軌道に乗り始めたという時期で、家族から見ても明らかに成功者の階段を登っていた。私でも名前を聞いたことのあるようなあの人やこの人からコンタクトがあった、と連日、嬉しそうに語っていた。
我が家を訪ねてくる友人たちの眼差しも、彼と私へ向けられた親しみのこもったものから、好意や憧れ、期待の入り混じった独特のものが、露骨に彼にだけ向けられるようになった。彼に養われ、赤ん坊を育てるだけの私には誰も興味を持たない。視線を向ける価値があるとは思わない。そんなことを思うと、私は自分が日に日に透明な存在になりつつあるような気がした。
生きて、存在してさえいれば誰かに見てもらえると信じ、疑ったことがなかった。でも実際のところは必ずしもそうとは限らない。夢から覚めるようにシビアな社会の現実に直面した矢先、何気なく観た映画の中で出会ったミスターセロファンは、紛れもない私だと思った。
“誰の目にも留まらない”ということ
現在話題となっている映画『JOKER』はまさに、そんな誰からも見られることのない冴えない男が、バットマンシリーズに登場するあの有名なジョーカーになるまでを描いた物語だ。
主人公は、幼い頃に受けた脳の損傷が原因で、笑いたくないのに笑いが止まらなくなってしまうという障害を持つ、中年男のアーサー(ホアキン・フェニックス)。要介護の母親と二人暮らしの彼は、スタンドアップコメディアンになることを目指しながら、ピエロとして楽器屋や病院へ派遣され、生計を立てている。生活は当然苦しい。
素顔を覆い隠し、ピエロに化けても尚、客先から不気味だとクレームの入るアーサーには、友達も恋人もいない。だから当然、そんな彼のことを気にかける者は、母を除いて誰もいない。しかしある時、そんな母との間にも思いがけない事実が浮上する。
誰の目にも留まらないということは当然、人間としての自分の持つ、喜びや楽しみ、苦悩、葛藤、過去や未来、あるいは、そのどれでもない、とるにたらない日常の出来事に、誰一人として耳を傾けてくれないということだ。この物語の中で、もしたった一人でも誰かが、アーサーにまっすぐな眼差しを向けてくれていたとしたら、当然ながらストーリーは全く別のものとなっていただろう。
別のジョーカー(ただしこちらはすでに悪者として完成されている)が登場するバットマンシリーズの有名な一作『ダークナイト』の中でジョーカー(ヒース・レジャー)は、ナイフを突きつけた市民相手に繰り返し、「俺の口が裂けている理由は……」と自分の物語を語って聞かせようとする。
誰かに見られ、その語りに耳を傾けられることがなければ私達は、自分が生きていると感じることができない。
『JOKER』の中で、ピエロに扮したアーサーは街角で陽気なステップを披露する。けれどもそれに足を止め、笑顔を向ける者は一人としていない。彼が見えない存在だからだ。
ところが、ある特定の状況のもとでだけ、そんなアーサーが他人から可視な存在となる。それは、悪意ある他者が、危害を加え、搾取を働いてもリスクの低い存在を見つけようと近づいてくるときだ。そういうときだけ、日頃見えない存在とされる者達は可視化され、格好の餌食となる。
けれども一方で、不可視な者を餌食にしようと企てる側の者たちも他方で社会から無視され、不可視の存在となっている場合が少なくない。自らの存在が長く無視され続けてきたからこそ、それによって鬱積した不満はともすれば暴力となって、より見えにくい者に向かう。(『JOKER』では、偶然によってそうならなかったが)。
先日神戸市で、複数の教師による陰湿な教師いじめが起きていたことが明らかとなった。「クズ」「カス」などという言葉で後輩教師を罵倒していたという加害者の一教師は、卒業生に向けた寄せ書きの中で、ベストセラー『置かれた場所で咲きなさい』(渡辺和子著)を引き合いに「自分が置かれた場所に不平不満を言うのではなく、そこで精一杯自分なりの花を咲かせましょう」と綴っていたという。(『週刊文春』10月17日号)
この問題を受け、毎日子ども達と向き合う学校という閉じられた環境下で、この教師たちが聖人でも超人でもない、ただの人間として存在することは、一体どの程度許されていたのだろうと考えた。
不可視の人、『CICAGO』のミスターセロファンは、必ずしも『JOKER』のアーサーのように地位や仕事、資産、人との繋がりが目に見えていない人ばかりとは限らない。結婚をしていても、家族と共にいても、会話が一切なければ一人で暮らしているのと同じこと。仕事に就いていたって、大勢の人に囲まれていたって、心のない機械のように扱われ続けていれば、人間としての自分は見られていないのと同じことだ。
社会は忙しくて複雑で、にも関わらず大勢の人が生産性という1つの価値観ばかり盲信しているから、私達は誰しも簡単に見られない存在となってしまうのだろう。