「Jポップの時代」平成と並走してきたMr.Children - 宇野維正 - BLOGOS編集部
※この記事は2019年01月24日にBLOGOSで公開されたものです
新しい本を書く際には何らかの問題意識を抱えて書くわけだが、書き終わった後に当初は思いもしなかったテーマが浮き上がってくることがある。昨年11月末に上梓した『日本代表とMr.Children』(レジーとの共著、ソル・メディア刊)は、1998年のフランス大会以降ワールドカップに6大会連続で出場している日本代表と、その日本代表のプレイヤーたちの精神性に強い影響を及ぼしたミスチルの音楽との関係、及びそれぞれの20年以上に及ぶ歩みを検証すべく書き進めていった本だが、それがそのまま平成の日本の精神性を探る作業でもあることに気づいたのは、ほぼ書き終えたタイミングだった。
「Jポップ」とMr.Childrenの時代だった平成日本
JFAがJリーグ発足に向けて検討委員会を設置し、2002年のワールドカップ開催地に立候補したのが1989年。桜井和寿、田原健一、中川敬輔、鈴木英哉がMr.Childrenというバンド名で活動するようになったのも1989年。つまり、どちらも平成元年のことだった。あれからちょうど30年。「平成はMr.Childrenの時代だった」とすると、まるで平成の終わりとともにミスチルが時代の表舞台から退場してしまうみたいになってしまうが、それを「平成はJポップの時代だった」と言い換えることは可能かもしれない。
ここでいう「平成はJポップの時代だった」とは、「昭和は歌謡曲の時代だった」とまったく同じ意味だ。つまり、昭和が終わった後も歌謡曲は文化として残ったように、平成が終わってもJポップは文化としては残る。しかし、きっと数年後に我々が「Jポップ」という言葉を口にする時、そこにはノスタルジーの響きが混じることになるのではないか。え? Jポップに換わる次の言葉がまだないじゃないかって? 歌謡曲という言葉が現在のような意味(=日本のポピュラー音楽)で使われるようになったのは昭和8~9年頃。Jポップという言葉が一般的に流通するようになったのは平成3~4年頃。それを考えれば、時間は十分にある。
昭和初期にNHKラジオが、それ以前から使われていた「流行歌」という言葉を「流行るか流行らないかわからないものを『流行歌』と呼ぶのはおかしい」という理由で言い換えたのが、その後に一般化した定義における「歌謡曲」という言葉。昭和末期に開局したJ-WAVEが、「洋楽と一緒にオンエアしても違和感のない日本のポップス」という意味で提唱するようになったのが「Jポップ」という言葉。いずれもラジオ発の言葉であったことは興味深いが、「Jポップ」という言葉が包括する音楽をバンドミュージックにまで広げることになったという点で、ミスチルが果たした役割は大きい。
ミスチルが果たした「ビートルズ的バンドミュージックの大衆化」
1989年(平成元年)2月に放送開始された『三宅裕司のいかすバンド天国』、通称『イカ天』が日本的バラエティ番組の流儀でデフォルメされたパンク/ニューウェーブ系バンドを紹介して、バンドブームの起爆点となったこと。同じ1989年4月にメジャーデビューしたXが、のちのビジュアル系バンドの源流となっていったこと。ちょうど平成が始まると同時に、日本においてバンドミュージックの間口を広げることになるそうした重要な出来事が同時多発的に起こっていたわけだが、その数年後にブレイクすることになるミスチルが日本の音楽シーンにもたらしたのは、一言で言うなら「ビートルズ的バンドミュージックの大衆化」だった。
若い世代には「ロックバンドがビートルズをお手本にするなんて当たり前のことなのでは?」と思う人もいるかもしれないが、80年代後半から90年代初頭にかけては、世界的に見ても歴史上で最もビートルズの価値が軽んじられていた時代だった。ポップカルチャーにおける80年代的価値観(ニューウェーブ的価値観と言い換えてもいい)においては、昔売れていて、もう古くなったものは、みんなダサいものだったのだ。それに加えて、90年代にはビートルズの曲が日本で音楽の教科書にも載るようになる。教科書に載っている音楽が、若者にとってクールな存在になり得るわけがない。そんな風向きが大きく変わったのは、デビュー当初からビートルズへの無条件の愛を公言し、音楽的にも多くを模倣していたオアシスの世界的ブレイク、そしてCD再発ブームのピークを刻むことになった『ザ・ビートルズ・アンソロジー』シリーズのリリースだが、それらはいずれも90年代半ばのことだった。
1992年にリリースしたデビューアルバム『Everything』の1曲目「ロード・アイ・ミス・ユー」に「抱きしめたい」(I Wanna Hold Your Hands)のブレイクを忍ばせ、同作からカットされたデビューシングル「君がいた夏」に「ヒア・カムズ・ザ・サン」のリフを忍ばせていたミスチルは、そう考えると世界的にもかなり早かった、確信犯的なビートルズ・フォロワーだったということになる。もちろん、それ以前も以降もビートルズから強い影響を受けたバンドはいたが、メインストリームのど真ん中で記録的ヒットを連発していくようになるミスチルは、いわば周回遅れでそのトップに立つことになった。『日本代表とMr.Children』の共著者である1981年生まれのレジー氏が言うように、「実はミスチルがビートルズ的なオーガニックなバンドアンサンブルの原体験だった」という30代以下のリスナーは少なくないはずだ。
そんなミスチルの臆面もないビートルズへのシンパシーは、同時期の渋谷系のバンドやそのファンたちが、60~70年代のマニアックなポップス、ソウルやジャズ、映画サントラの中古盤をレコードショップで熱心にディグしている時代にあって、今から思えば「コロンブスの卵」的な発見だった。1995年、当時は両者のプロデュースを手がけていた小林武史のリンクもあって、ミスチルは桑田佳祐と共にシングル「奇跡の地球」をリリースする。この曲は当時フジサンケイグループが手がけていたLIVE UFOというイベントのテーマ曲で、その年のゴールデンウィークには「LIVE UFO '95 桑田佳祐&Mr. Children “Acoustic Revolution with Orchestra”奇跡の地球」というライブを日本の各都市でおこなうが、そこではエルトン・ジョンやクイーンやピンク・フロイドなどの曲(いずれも1曲ずつ)と並んで、実に11曲ものビートルズ、及びジョン・レノンの曲が演奏された。
90年代後半のミスチルの曲、特にシングル曲を聴き返していて改めて驚くのは、一曲がやたらと長いことだ。普段、自分が同時代のラップミュージック(最近では2分台の曲も当たり前になっている)ばかり聴いているせいもあるのだが、それにしたって「終わりなき旅」は7分5秒、「光の射す方へ」は6分50秒、アルバムバージョンの「I’ll be」にいたっては9分10分である。実は90年代後半のミスチルには、ビートルズ的な4ピース・バンドサウンドという基本フォーマットはそのままだったが、作品のコンセプトやその構成においては独自の「プログレッシブロック化」とでも言うべき事態が進行していた。1994年のアルバム『Atomic Heart』の時点でもその予兆はあったが、それが最も顕著に表れているのは1996年のアルバム『深海』(ジャケットのアートワークも極めてプログレ的)と1999年のアルバム『Discovery』(こちらのアートワークはU2『ヨシュア・トゥリー』だが)だろう。
ロック史を追体験して生まれた「ミスチルの歌」
何が言いたいのかというと、ミスチルはミスチルなりに、90年代を通してそのバンド活動全体でロック史の追体験ともいうべき道筋を歩いていたということ。そして興味深いのは、そこではパンク/ニューウェーブの文脈が抜け落ちていたことだ。それは、例えばBOØWYやレベッカやTHE BLUE HEARTSやXやユニコーンやフリッパーズ・ギターといったミスチル以前にブレイクしたバンドや、盟友バンドとして一緒に語られることもあるスピッツとの大きな違いでもある。90年代後半、ミスチルのプロデューサー小林武史は、レニー・クラヴィッツの初期作品がレコーディングされたことで知られる、60~70年代のビンテージ機材を揃えたニューヨークのウォーターフロントスタジオを拠点に仕事をするようになる。そんなレコーディング環境とも必然的に合致して、今もストリーミングサービスでミスチル楽曲の再生数上位を占拠している、あの90年代後半のミスチル・サウンドが生み出されることになったわけだ。
『日本代表とMr.Children』宇野維正・レジー - Amazon.co.jp
その後のミスチルの音楽性と精神性の変化については、「ミスチルのミスチル化」などのキーワードを用いて『日本代表とMr.Children』の中でも詳しく書いたが、注目すべきは、その変遷とJポップ全体の変遷が今日まで並走してきたことだ。90年代を通して「ロック史」を追体験してきたミスチルは、その後、音楽的な先進性よりも歌詞のメッセージ性に重きをおいた「ミスチルの歌」という独自の世界を作り上げていく。一方、平成が始まるのとほぼ同じタイミングで「洋楽と一緒にオンエアしても違和感のない日本のポップス」という意味から生まれたJポップという言葉は、やがてそれ自体が一つの概念として自立し、今ではCDビジネスを延命させることに成功(?)してきた世界で唯一の国となった日本の音楽業界を象徴する言葉となった。そして、そのガラパゴス的環境で2018年に最も多くの枚数のオリジナルアルバムのCDを売っているバンドは、今もミスチルなのだ(オリコン年間アルバムランキング4位『重力と呼吸』。約43万枚)。
かつてビートルズの曲が日本の教科書に載ったように、今ではミスチルの曲も教科書に載るようになった(それも音楽の教科書ではなく倫理の教科書に)。「クールかクールじゃないか」というポップカルチャー的な価値観でいうなら、ミスチルはもはやいかなる側面においてもクールではないかもしれない。しかし、そもそもそうしたポップカルチャー的な価値観が大衆だけでなく、若者の間でも徐々に共有されなくなっていったのが、平成の日本だったのではないだろうか。
プロフィール
宇野維正(うの・これまさ):1970年、東京生まれ。映画・音楽ジャーナリスト。著書に『1998年の宇多田ヒカル』(新潮社)、『くるりのこと』(くるりとの共著。新潮社)、『小沢健二の帰還』(岩波書店)、『日本代表とMr.Children』(レジーとの共著。ソル・メディア)など。
Twitter:@uno_kore
イベントのお知らせ
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