自分たちで産んだ子供をどうして自分たちで育てようとしないのか - 赤木智弘
※この記事は2019年01月20日にBLOGOSで公開されたものです
15日、宮腰少子化担当相が茨城県の企業を訪れ、子連れ出勤の様子を視察したという。
宮腰大臣は「赤ちゃんの顔が幸せそう。乳幼児は母親と一緒にいることが何よりも大事ではないかと思う」などと発言、「この取り組みをモデルとして、全国へ広めていければ」と、子連れ出勤の推進に意欲を見せたという。
さて、このニュースに対してネットの反応の多くは極めて強く否定的なものであった。
「まずは議員がやれ」「保育園を増やせ」という意見が大半を占め、肯定的なものは殆どと言っていいほど見当たらない。
確かに、子供を連れて出勤して、子供の面倒を見ながら仕事ができるとは思わないし、保育園を増やせという意見も、もっともだと思う。しかし、僕にはこの反発に対する違和感がある。
その違和感を説明するために、まずはこの問題を2つに分けて考えてみよう。
まず1つが「女性差別としての子連れ出勤への反発」だ。
この男女同権が叫ばれる時代に「乳幼児は母親と一緒にいることが何よりも大事ではないかと思う」などという典型的な三歳児神話を少子化担当相が述べてしまうというのは、まさに「この政権にしてこの大臣」と思わざるを得ない。
本来であれば子育て支援とは「子供を育てる親の支援」であり、そこに性別は関係ないはずである。父親も母親も同じ子供の親なのだ。
しかし、大臣が訪れた会社を見ても、子連れ出勤をしているのは女性ばかりである。実際VTRの中でも子育て出勤をしている女性が「働いている人、みんなママなので」と発言しており、子連れ出勤の取り組みが母親限定でしかされていない状況が見て取れる。
それは結局「夫が本来負うべき子育て負担をせずに、妻に転嫁している」という点で、非常に女性差別要素を含むものである。 実際、このニュースに反発している人の半分くらいは女性差別的であるという論点から、子育て出勤を批判しているように見える。
そしてもう1つ。「仕事の都合としての子連れ出勤への反発」だ。
ネットで子連れ出勤に反対するもう1つの立場が「誰かが子供を連れてきて仕事ができるか!」というものである。
男女たくさんの人が働くオフィスで子供が泣いたりうろついたら、仕事に身が入らず迷惑だという立場が多くを占める。ましてや、建築現場に子供を連れてくるのは危険過ぎる。
また、その前段階として「満員電車で子供を会社に連れて行くのは無理」というものもある。
少子化担当相は「施設を整備する必要がない」と述べるが、結局のところ、視察をした「働いているのがみんなママ」という特殊な従業員編成の企業や、企業内に保育所を設置できる余裕のある企業でしか、子連れ出勤というのは実現しないということは明白である。
さて、2つの立場を見てもらったが、僕はこのどちらの立場にも同意である。しかし、それはあくまでもこの2つの立場をバラバラに見た場合である。
この2つの意見が合体すると実は大きな問題をはらむ論理が生まれてきてしまう。
それが「キャリアパス形成としての子連れ出勤への反発」である。
かつて、夫が子育てを妻ばかりに押し付け、自らは仕事に注力することは当たり前であった。それが男性のキャリアパス形成を容易にしており、まさに男性権力の1つであった。
しかし、女性も働く男女共同参画社会になったことで、本来であれば「父母ともに子育てをする」となるはずが、なぜか「父母ともに子育てをアウトソーシングする」ということが、さも正しい仕事と子育ての両立の方法であると受け入れられる事になってしまった。
「なぜか」といっても理由は明らかで、夫婦共にキャリアパスを得られるような職場で働けるなら、子育てのために仕事の時間を減らすよりも、さも単身者や子育てをパートナーに任せたかのように働いた方が生涯の収入や生きがいという点で有利だからである。
だから、育休制度の利用も進まないし、また有給の適切な利用も進まない。
「私は仕事をするのだから、子育てなどという雑事に時間を取られたくない」という、かつての男性の本音が、今や両親の本音となったのだろう。
そうした人たちにとって、職場に子供を連れてきて、子育てなどという雑事に追われながら仕事をするなどというのは、屈辱以外の何物でもないのだろう。
では、その両親は何のために子供を産んだのだろうか?
子供を育てたくないなら、子供を産む必要などないのでは?
フェミニズムの世界では「トロフィーワイフ」という考え方がある。権力を得た男が得る、若くて美しくて頭のいい妻を「トロフィー」として得るという考え方である。
それに倣えば、子供を育てたくない両親が産んだ子供は「トロフィーチルドレン」ではないのか。
すなわち「自分は家族を養っている、責任ある社会人である」という世間体を保つための子供なのではないか。
勘違いした「イクメン」が、子供をお風呂に入れて「俺は育児を負担している」と思いこんでいる裏には、お風呂を沸かし、子供の服を脱がし、オフロに入っている間に新しい衣服を用意して、上がったら子供に着させるという、面倒な雑事を担う母親の存在がある。
それと同じように、自分たちは「仕事と子育てを両立している」と思いこんでいる親の裏には、長時間重労働で低賃金の保育士という存在がある。
子育てを他人に押し付けたい親たちは保育園を増やすことを要求する。「私達は仕事、あの人達は子育て」という役割分担だと思えば都合もいいが、方や子供という重荷を降ろして働くことでキャリアパスを積み上げることができる上級国民。方や長時間重労働で、賃金もなかなか上がらない末端の労働者。
その格差を無視して「保育園を増やせ」とばかり主張することは、子供を預ける側の傲慢であるように僕は思う。
もう少しライフワークバランスのとり方を考えて、親がちゃんと自分の子供のために時間を取るような改革の方向に進むべきではないか。
企業で働くことも大切な仕事であれば、子育てをすることも大切な仕事であるということを認識させなければ、ただ権力傾斜によって、子育てが低賃金労働として弱い側に押し付けられるだけではないのか。
子供を邪魔者扱いする親が、さも子供を育てているかのように思い込むことは、子供にとって幸せなことであるのだろうか?
今のまま、子育てをアウトソーシングすることに一直線に向かうのだったら、無理筋ではあっても子育て出勤の提案の方が「まだマシ」に見えてしまうのである。
どうしてそれほどまでに、自分たちで産んだ子供を自分たちで育てることを嫌うのか。もう少し真剣に考えられる社会であってほしい。