彼の家でクローゼットを開けたら、見慣れないピンクのポーチが。シラを切る男に…
恋に仕事に、友人との付き合い。
キラキラした生活を追い求めて東京で奮闘する女は、ときに疲れ切ってしまうこともある。
すべてから離れてリセットしたいとき。そんな1人の空白時間を、あなたはどう過ごす？
▶前回：32歳で執行役員までのし上がった女。後輩女に“調整役”と嫌味を言われて、向かった先は…
Vol.15 ホテルオークラ
金曜の15時。
タクシーを降りた私は、『ホテルオークラ』のエントランスに足を踏み入れた。
― 落ち着いた雰囲気、前と全然変わってない。
と同時に、今回のホテルステイのキッカケにもなった、会社の同期で彼氏の康二の家で起きたことを思い出す。
◆
先週の土曜日。
『食幹 六本木』でディナーを楽しんだ後、康二の赤羽橋にあるマンションに行ったときのこと。
「康二、コート掛けたいから、ハンガー借りるよ」
クローゼットを開けた時、キャビネットの端にある見慣れない物が目についた。
「えっ、何これ？」
それは、春らしい薄ピンク色の小さなポーチ。雑誌で見かけた『miu miu』の新作だ。
「由里子、プロジェクター新しくしたから映画観ようよ」
クローゼットの前で立ち尽くす私の後ろから、部屋着に着替えた康二が抱きしめてくる。
「ねえ、これ誰の物？」
自分でも思った以上に低い声が出た。
康二の情けない言い訳に、由里子は、嫌気がさして…
その後、言い訳を延々と繰り返す康二を無視して、タクシーで代々木の自宅に戻った。
私たちは、新卒で就職したWebサービス会社の同期でお互い28歳。もう4年以上、何度も別れてはヨリを戻している。
研修で意気投合し付き合った後、私は営業、彼はエンジニアになった。
地方出身で奨学金を借りて大学に進学した康二は、人一倍ハングリー精神が強く「絶対に東京で成功する」が口癖だった。
「今度、大学の同期と一緒に、Webデザインの会社を立ち上げようと思う」
2年前に、いきなり彼が独立した時は驚いたが、私は、信念に愚直に従うその姿が好きだった。事業を軌道に乗せた彼のことを尊敬している。
でも……。
― しばらく康二には会いたくない。気分転換にどこか行きたいな。
私は、憧れのライフスタイル雑誌の編集部に転職してもうすぐ1年になる。寝る間を惜しんで働き、仕事にもようやく慣れてきた頃だ。
上司からも、そろそろ休みを取ってほしいと言われている。でも、遠くに行く元気はないし、いきなりだから友達も誘えない。
ふと前に担当していた雑誌で、“お篭りホテルステイ”を特集していたことを思い出した。
すぐにスマホを開いて編集部で一番人気だった『ホテルオークラ』を予約した。
◆
ロビーは、特徴的な四角い形のオークラ・ランターンがぼんやりと照らす上品なゴールドを基調にした空間。
建て替え前と全く変わらない。まるで、タイムスリップした気分になる。
― テーブルの間を弟が走り回って、お父さんに怒鳴られていたな。
昔は古くて薄暗いロビーだと思っていたが、年を重ねて、その陰影の生み出す美しさを感じることができる。
チェックインしたあと、エレベーターに乗って35階に上がる。
ふかふかな絨毯の敷いてあるホテルの仄暗い廊下を歩き、自分の部屋の前に立つ。
ドアを開ける時は、一番気持ちが高まる。
「わー！すごい」
ドアを開けると、綺麗に整えられたクローゼットがあり、その奥に景色を楽しめるバスルームが見える。
中に入ると、大きなキングサイズのベッドとソファがあり、和の雰囲気がありながらも、スタイリッシュな空間が広がっていた。
窓の外を見ると、新宿の高層ビル群から皇居まで見渡せる東京のど真ん中の景色。思わずテンションが上がる。
こんなに開放的な気分になったのは、久しぶりだ。
― デートで下ろそうと思っていたアレキサンダー・マックイーンのワンピース、持ってきて良かった！
部屋を探検し終わり、ラッフルスカートが目を引くブラックドレスと、PRADAの黒いハイヒールに着替える。
私は、身長167cmで康二は170cmだ。普段は身長が近い彼に気を使って、ローファーばかり履いているから、ヒールの靴は久しぶりだ。
大きな鏡に映った自分の姿をチェックする。
「さて、好きな本でも読んでお篭りステイを楽しもうかな」
お茶を入れてソファに腰掛けた。
学生の頃に好きだった村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』をバッグから取り出す。
元々読書家だったが、忙しい日々に追われて、最近では仕事で必要な本しか読まなくなっていた。
ソファに寝転んで、本を広げる。好きな本は何度も読み返す派だから、表紙は色褪せ年季がはいっている。
― 最近は、家だと仕事以外の本を開いても、頭に全然入ってこないんだよね。
自分の家は転職を機に、グリーンに溢れた木の温もりを感じるインテリアに模様替えをした。
きれいな状態をキープしたいと思っても、どんどん洗濯物や洗い物が溜まってしまう。枯らしてしまった植物も1つ2つではない。
目の前は洗練されていながらもくつろげる空間が広がっている。整えられた空間は頭もクリアになる。
久しぶりに読書に没頭して一気に読み終わってしまう。
スマホで時間を確認すると、もう17時を過ぎている。
そして、康二からLINEが来ているのが目に入ってきた。
康二からのメッセージをみて、由里子はさらに悩むことになるが・・・
メッセージを既読をつけずに確認すると『俺が悪かったごめん、もう一度チャンスをください』とあった。
あれから、康二から何回も謝りの連絡があったが、返信はしていない。
こんなやり取り、今まで何回もあった。その度に康二はこうして謝ってくるので、許してきた。
友達がマッチングアプリで、彼のアカウントを見つけた時。
彼のLINEに「明日のお泊まり楽しみだね♡」というメッセージが見えた時。
康二の女にだらしないところは嫌いだ。
ただ長い付き合いだからそれなりに情もあるし、一緒にいて飽きない人だから、なんだかんだでこれまでやってきた。
「でも、今度こそ、限界かも」
ため息とともに、私はつぶやいた。
― 結婚願望はまだないけど。このまま康二と関係を続けて、結婚なんて考えられないな…。
私はスマホの電源を切り、気持ちを整理するためにプールへ向かうことにした。
優しいグレーの空間の中にプールの青いタイルが印象的だ。都心のビルの中とは思えない静かな空気感。
― 泳ぐ時は何も考えなくていいなあ。
私の他には、高齢の男性が1人黙々とプールの中を歩いているだけ。
無心になって平泳ぎ、クロール、背泳ぎを適当に繰り返す。
何度かプールを往復した時には、息が上がっていた。
泳ぎ疲れた後は、ホットタブの中で体を伸ばす。
友達からプレゼントでCLAYDの入浴剤をもらったが、忙しくてお風呂を楽しむ時間がないまま放置していることをふと思い出す。
「こうやって、ゆっくり過ごす時間もたまにはいいな」
窓から差す夕方の優しい光が、水面にゆらゆら映っている。
― そっか…今日は金曜か。まだ、皆頑張って働いている時間だな。
夕暮れの窓の外には、オフィスビルの蛍光灯が煌々と輝いている。いつもは、私もその無数の光の中のただ1つだ。
転職した会社では正直うまくいかないことも多いが、挑戦したことで新しい世界を知ることができた。
― それに対して、恋愛についてはうやむやにしてきていたなぁ。
浮気はもちろん許せない。でも、長い間一緒だったから、別れて独りになることを恐れてきた。
― 康二との関係も見直さないといけない時期なのかもしれない。
泳いで冷静になったおかげか、静かに決意が固まってきた。
― この後は、ルームサービスを頼んで、音楽を聴きながらお風呂に入ろう。
1人のホテルステイは、想像以上に楽しく充実している。私は、勢いよくホットタブから飛び出した。
◆
次の日、7時前に目が覚めた。
天気は、あいにくの曇り空だったが、高層階だと曇りでも明るくて気持ちがいい。
半日ぶりにスマホの電源を入れると、つい数分前に康二からまたLINEが届いている。
― 今ごろ、朝型の康二は、コーヒーでも飲んでいるんだろうな。
ベッドの上でヨガのポーズを取り、呼吸と感情を落ち着かせる。
「よし…自分の気持ちを正直に伝えよう」
そう決心して、通話ボタンを押した。2コール目で、電話が繋がった。
「由里子！良かった連絡してくれて」
ほっとしたような声が聞こえてきた。
「ここ数日色々考えたけど……、私たち終わりにしよう」
「いや待ってよ！俺、本当に心を入れ替えたし、二度と由里子を裏切ったりしないから！」
前に聞いたことがあるセリフ。
「康二のことは、人として好き。だけど……、一緒にいる未来を想像できないの。今は自分の時間が必要なの」
「……」
「今度ちゃんと話すけど、決意は変わらないから」
何か言いたげな彼の声を押し切って、そのまま終話ボタンを押した。
このまま話していると、康二に引っ張られてしまいそうだから。
「ちゃんと言えた！そうだ、朝ごはんは、名物のフレンチトーストを食べよう」
あの柔らかくて口の中で溶ける優しい甘さを想像したら、元気が出てきた。
さっきまで曇っていた空に、雲の隙間から日の光が差し込んでいる。
1人の時間だって素敵だ。
思い切った決断は、いつも自分を幸せにしてくれるから。
▶前回：32歳で執行役員までのし上がった女。後輩女に”調整役”と嫌味を言われて、向かった先は…
▶1話目はこちら：見栄を張ることに疲れた30歳OL。周囲にひた隠しにしていた“至福のご褒美”とは
