タワマン在住のワーママが破格の待遇で転職するが…
港区、千代田区、中央区、渋谷区、新宿区。
通称「都心5区」。このエリアは、東京でもずば抜けて不動産価値が高い。
日本の高級住宅街を抱えるこのエリアに住めるのはもちろん、“選ばれし者たち”のみ。
そこに選ばれた女たちは、男、仕事、年収、プライベートも“すべて”手に入れたいと思っている。
尽きることのない欲望を持つ女たちは、白鳥のように美しくあろうと足元でもがき続けているのだ。
File6. 奈津子、中央区在住。勝どきのタワマン住まいのワーママ
― やっぱりこの景色、最高だわ…。
奈津子は今日も、32階の自宅マンションの窓から夜景を眺める。
「タワマンから見る夜景は、住み始めて1ヶ月で飽きる」
よくこう言われるが、奈津子にとって全然そんなことはなかった。
5年前に購入した勝どき駅から徒歩5分のタワーマンション。このマンションから見る夜景は、1ヶ月どころか何年経っても色褪せることはなく、自分が勝ち組であることを示す象徴だと思っている。
滋賀県出身で大学進学を機に上京した奈津子は、とにかく東京にいること、そして都心に住むことに対するこだわりが強かった。
「タワマンに憧れるなんてダサイ」「地方出身にありがちなミーハー根性丸出し」などと周りから思われたとしても、人生で1度はタワーマンションに住んでみたいと思っていたのだ。
しかし、タワーマンションならどこでもよかったわけではない。
「タワマンの聖地」と呼ばれる豊洲ではなく、ここ中央区・勝どきにしたのも、都心5区に住むことへの強いこだわりがあったから。
豊洲は、勝どきから晴海大橋を渡ればすぐの距離だ。
しかし、この“晴海大橋を渡るか渡らないか”の違いは、あたかも国境を越えるかのように、奈津子にとっては大きな違いだったのだ。
念願のタワマン住まいを手に入れた奈津子。そこに元上司から思いがけない誘いが
奈津子は大学卒業後、ITベンダーに営業職として就職した。
そして、大学の同級生と結婚後、2度の出産を経験。
ITベンダーの営業職という男社会にあって、2度の出産を経験した奈津子の存在はこのご時世においても珍しく、社内ではワーキングマザーのロールモデルとして有名な存在でもあった。
勝どきのタワマン、2人の可愛い子ども、そして仕事…。
それなりに自分の人生に満足してもよかったが、2人の子どもを保育園に預けて時短で働く奈津子は、給料がベースラインから2割削減されている。
また、フルタイムで働けないので、昇進スピードも緩やかになっている状態だった。
「子どもがいて無理せず働けるだけ、ありがたいと思わなきゃ…」
こういういい子ぶりたい気持ちがある一方で、年収や昇進にいささかの不満を感じていたのも事実だ。
そんなとき、奈津子のFacebookに1通のメッセージが届いた。
メッセージの送り主は、以前の上司で今は別の外資系ITベンダーにいる牧野という男性だ。
「大槻さん、お久しぶり。そちらの会社では元気でやっているかな？ちょっと仕事のことで相談があるんだけど、近いうち会えないかな？お子さんいるし、ランチでもどう？」
― 仕事のことって、何かしら…？
そう思いながらも、お世話になった元上司が会いたいと声を掛けてきてくれたことが嬉しく、すぐに返信した。
◆
1週間後。
大手町の『ル・プーレ ブラッスリーうかい』で、奈津子は久しぶりに牧野と再会を果たした。
「牧野さん！お久しぶりです。メッセージありがとうございます。相変わらず、お元気そうでよかったです」
「いやぁ、こちらこそ急に時間取ってもらってありがとう。ちょっと大槻さんに話したいことがあって」
テーブルに置かれたばかりの前菜の盛り合わせを食べながら、奈津子は尋ねた。
「お話したいことって、何ですか？」
「実はうちの会社、去年SaaS製品ベンダーを買収したんだけど、その製品を日本で展開するための営業が足りなくて、大槻さんに来てもらえないかと思っているんだ」
牧野の話とは、転職の誘いだった。急な話に明らかに戸惑う奈津子を前に、牧野は話し続けた。
「大槻さんが転職してくれるのであれば、年収と役職を今よりも大幅にアップすると約束するよ。僕は去年、執行役員になっているから待遇について保証できる。
あと、お子さんが小さいことの不安もあるだろうけれど、うちは外資系でワークライフバランスには配慮するから、そこは心配しないでほしい」
牧野が提示したのは、現在のベースライン給与よりも400万円ほどアップした年収と、シニアの役職という破格の条件だった。
思いがけない高待遇の誘いに、奈津子は思いがけず即決しそうになる。
だが、新たな環境に馴染めるのか、子どものことは本当に大丈夫なのか…そういった不安もありその場での返事は控えた。
しかし、その後も牧野からメールや電話で熱心な誘いが続いた。こうして、今より大幅にアップする年収と役職に魅力を感じて、思い切って転職することにしたのだった。
◆
牧野の会社に転職して、2ヶ月が経った。
入社当初は、破格の条件とポジションに奈津子は完全に浮足立っていた。
しかし、外資系なだけあって同じITベンダーとはいえ前職と比較にならないくらい、まさに“生き馬の目を抜く”を地で行く社風だったのだ。
新卒から同じ会社でぬくぬくと生きていた奈津子は、あっという間に仕事についていけなくなっていた。
なぜ、奈津子が採用されたのか？
担当する製品の売上が思うように上らないまま、月日だけが過ぎてゆく。
誰から見ても明らかにパフォーマンスを出せていないことに、奈津子はかなりの焦りを感じていた。
― 私、このままではヤバい。PIP候補になっちゃう…。
PIPとは業績改善プログラムのことであり、多くの外資系企業では人事考課システムの1つとして採用されている。
PIPは表向き、対象者に「本人の業務改善」「能力の開発・向上」などを目的として、比較的短期の期限で具体的な課題を課すケースが多い。
しかし実際は、達成できない課題が設定されることがほとんどで、解雇圧力の一手であると言われている。
相応のポジションで入社した以上、早い段で結果を出すことが求められるのは当たり前だが、奈津子はまったく成果を上げていない。
それどころか、社内の人間関係や雰囲気もうまく把握できず、明らかに周囲の足手まといになることもあった。そんな奈津子に対して、当然、社内での風当りも強くなっていく。
やがて仕事の悪い影響が、家事や育児にも支障をきたすのだった。
「あぁ、もう！それくらいのこと、自分でやってよ！」
あまりの余裕のなさに、様々ないら立ちを夫と子どもたちにぶつけてしまっては、後になって落ち込む毎日。当然ながら、家庭内もギクシャクするようになっていた。
◆
そんな矢先。
奈津子は、社内のステアリングコミッティ、通常ステコミと呼ばれる上層部の会議に出席していた。
この会議では、業績はもちろんのこと、今後の採用計画など人事に関する機密情報も展開される。
そこで見た資料に、奈津子は注目してしまう。
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弊社のグローバルグループでは管理職における女性の割合は30％を超えているが、日本支社は現在15%程度にとどまっている。これは、日本政府が過去に掲げた『2020年までに指導的地位に占める女性を30％』という指針と比べても大幅に達していない状況である。
よって、下記の計画を推進する。
�〜蟇�のキャリアを持つ女性人材の採用強化。転職エージェントにも条件で優遇し、女性管理職の採用を促進すること
��管理職候補となる女性社員には、早期の昇進を促進すること
※今期中に20％を達成できない場合、執行役員にペナルティが発生する可能性がある
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そのとき、資料を見たある社員が、小さく笑いながら隣に座る同僚にこう話しかけていた。
「まったくさぁ…だから“女性”っていうだけで採用しちゃうんだろうね」
「ホントだよ。実力不足の奴、多いよな…」
このやり取りを目にした奈津子は、心がズキンと痛むのを感じた。
― 私が採用されたのは、これが理由だったのね…。
採用してくれた牧野は、グローバルからのペナルティを恐れ、不足する女性管理職を増やすための“パーツ”として奈津子に声を掛けただけ。奈津子のキャリアのことなど何も考えていなかったのだ。
そして奈津子も、自分に足りない「キャリアと年収」という“パーツ”を補うために、ホイホイと牧野の誘いに乗っかった。
奈津子と牧野は、お互いを利用し合っていただけだったのだ。
入社当時は嬉しかったこのシニアの役職が、自分の中で急速に色褪せていくことを感じた奈津子は、誰にも聞こえないようにこうつぶやいた。
「私がいるべき場所は、ここではないわ」
牧野の、そしてこの会社のパーツになるために、危うく自分の人生を犠牲にするところだった奈津子は、自分の身の丈にあった環境に移ることを決意したのだった。
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