異例の昇進を遂げた29歳女が、嫉妬の的になってしまい…
港区、千代田区、中央区、渋谷区、新宿区。
通称「都心5区」。このエリアは、東京でもずば抜けて不動産価値が高い。
日本の高級住宅街を抱えるこのエリアに住めるのはもちろん、“選ばれし者たち”のみ。
そこに選ばれた女たちは、男、仕事、年収、プライベートも“すべて”手に入れたいと思っている。
尽きることのない欲望を持つ女たちは、白鳥のように美しくあろうと足元でもがき続けているのだ。
File5. 恵、新宿区在住。研究を極めたい一心だったのに…
「あーぁ、もうこんな時間だわ。そろそろ帰らないと…」
時計を見ると23時近く。恵のデスク周りにはもう誰も残っていなかった。
オフィスから徒歩でしばらく歩いた先にある市谷のマンション。ここが恵の住まいだ。
調査に論文作成にと、1日中脳をフル回転させて働いているため体は疲れているが、好きな仕事ができていることで気持ちは充実している。
この夜の疲労感も、何だかんだ言って恵は嫌いではなかった。
市谷に住んでいる理由は、職場からのアクセスを考えてというシンプルな理由に他ならない。
恵はそれくらい、今の仕事が大好きなのだ。
◆
恵は一橋大学の大学院でマクロ経済学を修了したのちに、有名シンクタンクの経済調査部に研究員として入社した。
この春で入社5年目を迎える恵は、世の中の動向を見て研究するテーマを決め、追求していくという過程がたまらなく好きだった。
研究職は天職だと、恵は常々感じていたのだった。
さらに、自分が「コレ！」と思ってテーマに決めた研究が、製品開発をはじめあらゆる形で世の中の役に立つ瞬間は、まさに研究員冥利に尽きると言っても過言ではない。
名誉なんていらない。「自分の研究が世の中の役に立つ」というこの実感こそが、何より恵は大好きなのだ。
週末は、近所の皇居周辺をランニングする程度の趣味はあったが、基本的には仕事に没頭し、十分満足する毎日を送っていた恵だった。
研究に没頭する恵。ある日、環境が一変してしまう出来事が起こる
恵が求めるパーフェクト…それは「仕事での成果」だ。
自分の仕事、すなわち研究の成果の質を高め、世に貢献していきたい。この上昇志向は誰にも負けないのだった。
しかし、それは必ずしも社内での出世を意味することではない。むしろ、自分のやりたい研究で成果を上げたい、という純粋な熱意に過ぎなかった。
もちろん、いつかは主席研究員への道を目指そうとは思っていたが、別にシンクタンクの顔として経済番組に出るような目立つ存在になりたいなどとは1ミリも思っていなかったのだった。
◆
ある日、パソコンに向かい黙々とデータ分析を行っていた恵に、上司から1通のメールが届いた。
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渡辺さん
昨年、渡辺さんが発表した研究『新興諸国の企業成長と起業マインドを支えるエコシステムについて』が、団体の表彰を受けることになったという連絡をいただきました。
渡辺さんの年次で、こちらの団体の表彰を受けるというのは非常に珍しく、弊社としても大変喜ばしいことです。
日々の努力が実を結びましたね。おめでとう！
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そのメールは、恵がある団体の表彰を受けることになったという連絡だった。
恵がグローバルチームとも連携した研究結果が、業界内で注目を浴び、企業のみならず教育機関の育成プログラムにも役立てられているという。
「渡辺さん、すごいじゃない！」
「あの表彰、なかなか取れないよね。本当におめでとう！」
社内外から祝福の声が寄せられ、業界内では一躍時の人となった恵のもとには、専門誌のみならずビジネス雑誌からの取材依頼がいくつも届くのだった。
そして、2ヶ月後。
『渡辺 恵 旧役職：主任研究員 新役職：主席研究員』
表彰を機に、恵は次席研究員を飛び越えて、早々に主席研究員への昇進を果たしたのだった。
「いつかは主席研究員になりたい」
ぼんやり思っていたが、こうも早い出世に他の誰でもない恵が一番驚いていた。
しかし…。
恵を見る周りの目は、温かいものばかりではなかった。
研究そのものが好きで、役職が欲しかったわけではなかった恵は、そのような出世競争の話とは一定の距離を置いて、できるだけ関わらないようにして過ごしていた。
しかし、「出世には興味がありません」という態度を貫いていた恵の異例の抜擢は、当然ながら周りの先輩や同僚からの嫉妬を大いに浴びることになったのだ。
「渡辺さんってさ、何だかんだ言っても結局、早く出世したかったんだね。それならそうと言えばいいのにさ…」
「ホント、あんなに謙虚ぶるくらいなら、まだ『出世したい！』って派手に言う人の方がマシだよね」
こんな声が、どこからとなく漏れ聞こえてくる。
そして、今まで先輩や同僚だったメンバーが、どこかよそよそしい。主席研究員となった恵に対して、距離のある態度をとるようになっていった。
― 先輩も同僚も、皆私の昇進が面白くないんだわ…。私は、そういうつもりじゃなかなったのに…。
社内の人間関係に悩むようになった恵は、大好きな研究にも手がつかなくなってしまったのだった。
大好きな研究が思うようにできない…。恵は上司に思いを告げるが？
主席研究員になって6ヶ月が経ち、社内の評価時期を迎えていた。
昇進してからというもの、社内の自分への風当りも強くなり、心身ともに疲弊していた恵。最近は、研究以外の業務も増え、なかなか思うような仕事ができていなかった。
― 私にはまだ早かったんだ。私は、ただ研究がしたいだけなのに…。
一般的に昇進はありがたいことだが、恵は会社に対して被害者意識さえも募らせるようになっていた。
「もうだめだ、言おう」
こうして恵は、主席研究員は自分にとってまだ早いといった悩みを、評価面談で上司に打ち明けたのだった。
「どうかしたの、いきなり…。まぁ、まずは話を聞こうか」
上司は驚いていたが、話を聞いてくれるという。恵は、緊張で強張る体をリラックスさせようとふうっと息を吐き、そしてこう言った。
「私、別に主席研究員になりたかったわけじゃないです。ただ、自分の好きな研究をしていたかっただけです。せっかくシンクタンクに研究員として入ったのに、研究に没頭できないというのはどうしても耐えられません。
私は研究が好きだし、出世がしたいわけじゃないのです。私を役職なしの研究員に戻していただけないですか」
堰を切ったように自分の思いを話した恵は、目に涙が浮かぶのがわかった。
しかし、ここはあくまで仕事の場である。泣いてはいけない。恵は、こぼれそうな涙を必死にこらえた。
恵の話を聞いた上司は、少し息をつき、穏やかにこう言った。
「気持ちは理解したよ。ちなみに、次はどういう研究を考えていたの？」
― なぜ、今そんなことを聞くのだろう…？
訝しみながらも、考えていた研究はいくつもあるので、恵はそれらの内容と社会に与えられるであろう影響について語り始めた。
「前回は、起業家支援を中心とした研究を発表しました。その続きとして、スタートアップ企業が活躍できるために、政府や教育機関、大企業、投資家を中心とした連携を作る必要があると思っています。類似事例は起業家先進国の北欧やアメリカにあると思いますので、それらを調査した上で、新興諸国に展開するプログラムを提案したいと思っています。それから…」
― あぁ、やっぱり研究の話をしている時が一番楽しい…。
先ほどまでの涙が嘘のように、恵は少し楽しい気持ちになっていた。そして、一通り恵の話をきいてくれた上司は話し始める。
「話してくれてありがとう。結論としては、君は降格させない。このまま主席研究員で頑張ってほしい」
「えっ……」
予想外の返事に戸惑う恵。上司は話を続けた。
「主席研究員や代表に上がりたいだけで、肝心の研究を疎かにする者が少なからずいるが、それでは研究機関であるシンクタンクは力を維持できない。
今の話を聞いて、改めて君のような人材が上に立つことが望ましいと思った。君を主席研究員にしたことが間違いではなかったと確信できたよ。もちろんまだ君にも足りないところはいくつもある。しかし、それは克服できるはずだ」
そして、こう続ける。
「渡辺さん…君が嫌な思いをしていたのは知っていたよ。しかし、残念だがどの世界にもよくあることだ。こんなことで、めげてはいけない」
― ご存じだったんだ…。そして、研究テーマについて私に話をさせたのも、そういうことだったのね…。
恵の気持ちや考えは、上司はすべてお見通しだった。その上で、恵をやはり主席研究員として育ててくれようとしていたのだ。
「大丈夫、君ならできるよ。気負わずに、今までと同じように研究を楽しめばいいんだから」
「……」
またも目に涙がこぼれそうになる。しかし、それは先ほどの涙とは違う、上司の温かい言葉による嬉し涙だった。
「ありがとうございます。…はい、頑張ります！」
周りからの心ない言葉で、自分の志が見えなくなっていたことを恥じると同時に、もう一度研究の道を突き進むことを心に誓う恵だった。
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