旧日本海軍の軽巡洋艦「夕張」が1923年の今日、進水しました。「夕張」は船体や機関などは駆逐艦級でしたが、性能は軽巡洋艦として十二分。同型艦は造られませんでしたが、培われた技術は新型艦の開発に受け継がれています。

駆逐艦クラスの大きさでも性能は巡洋艦

 1923(大正12)年の3月5日は、旧日本海軍の軽巡洋艦「夕張」が進水した日です。「夕張」は同型艦を持たない、いわゆる“1点モノ”でしたが、当時は世界の海軍を驚愕させた軍艦でした。

 それもそのはず、「夕張」の船体や艤装、機関は駆逐艦を踏襲したものにもかかわらず、性能的にはトン数でそれを上回るクラスの軽巡洋艦に比肩するレベルだったからです。世界の軍艦を解説する『ジェーン軍艦年鑑』で当時、「わずか3100トン(編注:常備排水量)ながら、球磨型と大差ない速力と攻撃力を備えた、特異な巡洋艦」と解説されたほどでした。


旧日本海軍の軽巡洋艦「夕張」(画像:アメリカ海軍)。

 竣工しておよそ1か月後の9月1日、関東大震災が発生。「夕張」は救援活動に従事しました。翌月にはお召艦としても使われ、当時の大正天皇皇太子が乗艦されて、被災地を視察しています。以降は1941(昭和16)年に太平洋戦争が始まるまで、上海事変や日中戦争などで当時の中華民国とたびたび交戦しました。

「夕張」が遺したもの

 太平洋戦争では真珠湾攻撃と同時に、「夕張」は第六水雷戦隊の旗艦として、駆逐艦などを従えて中部太平洋のウェーク島を攻撃。アメリカ軍との激戦の末、ここを占領します。翌1942(昭和17)年にかけて、西太平洋のトラック島やパプアニューギニアのラバウルなどへ赴きました。

 勝敗の転換点とされる6月のミッドウェー海戦に旧日本海軍が敗北した後も、ガダルカナル島攻略など南方作戦に従事。しかし、徐々に制海権がアメリカ側に掌握されていくなか、1943(昭和18)年7月には「夕張」も、ソロモン諸島の近海で機雷に接触。致命傷とはなりませんでしたが、横須賀でおよそ2か月間の修理を受けています。

 復帰後は再びラバウルへ出撃。主に物資の輸送任務に従事しました。この任務は翌1944(昭和19)年も引き続き行われます。

 そのようななか4月27日、サイパン、パラオと移動中に、「夕張」はソンソロール島の近海で、アメリカ軍の潜水艦による雷撃を受けます。3本の魚雷が命中し大規模な浸水を生じると、「夕張」は航行不能に陥りました。

 駆逐艦による曳航を試みるも、浸水が増大していた「夕張」は翌28日に沈没。姉妹艦のない軽巡洋艦でしたが、塔型艦橋や誘導煙突、2基の主砲塔に高低差をつける、いわゆる背負式配置などは、後に誕生した駆逐艦や巡洋艦に受け継がれています。