駆逐艦「涼月」進水-1942.3.4 戦艦「大和」の水上特攻にも参加 奇跡の生還で同型最長寿
旧日本海軍の駆逐艦「涼月」が1942年の今日、進水しました。護衛任務に従事するなかで、アメリカ潜水艦から2度も雷撃を受けますが辛うじて帰投。戦艦「大和」とともに沖縄作戦にも参加しますが、満身創痍で生還を果たします。
持ちこたえた2度の雷撃
1942(昭和17)年の3月4日は、旧日本海軍の駆逐艦「涼月」が進水した日です。秋月型駆逐艦の3番艦として建造され、10cm連装高角砲を4基8門備えるなど、対空火力を増強した駆逐艦です。
竣工翌年の1943(昭和18)年は、「涼月」には主だった交戦はありませんでした。本土と西太平洋のトラック基地を往復し、艦隊や輸送船の護衛に従事しています。5月には、作戦指揮中に撃墜され戦死した山本五十六連合艦隊長官の遺骨を乗せた戦艦「武蔵」の護衛任務にも就いています。
空襲により火災を生じる駆逐艦「涼月」(画像:アメリカ海軍)。
ただ、翌1944(昭和19)年になると「涼月」は一転して、大損害を2度も被っています。1月中旬、太平洋中部のウェーク島へ向かう途中、アメリカ軍の潜水艦により被雷。2本の命中魚雷は艦首と艦尾をもぎ取り、さらに艦橋を破壊しました。100人以上の戦死者を出した挙句、あわや沈没と思われた「涼月」でしたが、僚艦「初月」に曳航され呉になんとか帰投し、大掛かりな修理を受けます。
8月初旬に「涼月」は復旧。失った艦首と艦橋は新造されたため、ほかの同型艦とは異なる見た目となりました。しかし2か月後の10月中旬、日本近海でまたもアメリカ軍の潜水艦による雷撃を受けます。再び艦首を失った「涼月」は、今度はおよそ1か月間、呉で修理となりました。なお、この間に史上最大の海戦とも称されるレイテ沖海戦が勃発していますが、当然ながら「涼月」は参戦していません。
再修理が終わったのち、11月は本土と台湾、フィリピンのあいだで輸送作戦の護衛任務に従事しました。
戦艦「大和」ともに沖縄へ…
1945(昭和20)年にもなると、制海権・制空権ともにアメリカ軍に握られていき、「涼月」も本土の軍港に留め置かれることが多くなりました。そのようななか、3月19日には呉が空襲を受けます。この時「涼月」は、同じく軍港にいた戦艦「大和」を護衛しています。
その直後、「涼月」は最後の戦いとなる水上特攻を下令されます。「大和」などとともに、沖縄に上陸したアメリカ軍に対し、座礁させ砲台化した艦から砲撃を加えるという作戦でした。
「涼月」は4月5日、「大和」と軽巡洋艦「矢矧」、ほかの駆逐艦8隻と艦隊を組んで沖縄へ向けて出撃。しかし2日後の7日正午過ぎ、沖縄近海のアメリカ軍空母が発進させた艦載機の猛攻にさらされます。「涼月」は戦闘開始からおよそ30分後、艦橋至近に爆弾が命中。火災と浸水が発生します。
2時間以上におよぶ激戦により、「大和」と「矢矧」、そして駆逐艦4隻が沈みましたが、「涼月」の姿は洋上にありました。しかし船体は大きく沈下、加えて前進ができないなど甚大な被害を被っていました。コンパスもまともに機能しないなか、「涼月」は本土を目指します。
翌8日、満身創痍で「涼月」は佐世保に帰投。工廠では、すでに沈没したと思われていたといいます。ただし損傷が激しく、停泊できる最低限の修理を受けた後は、訓練に従事するなどして終戦を迎えています。
戦後は復員船として使われることなく、その船体は北九州市若松区にある若松港の防波堤として転用されました。現在はコンクリートに埋没してしまったものの、案内板でその場所を伺い知ることができます。