元ヤクルト久古健太郎が転職成功談を語る【写真:本人提供】

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「THE ANSWER the Best Stories of 2021」 コンサルタントに転身した久古健太郎さん

 東京五輪の開催で盛り上がった2021年のスポーツ界。「THE ANSWER」は多くのアスリートや関係者らを取材し、記事を配信したが、その中から特に反響を集めた人気コンテンツを厳選。「THE ANSWER the Best Stories of 2021」と題し、改めて掲載する。今回は5月、プロ野球・ヤクルトで2015年のリーグ優勝に貢献した35歳・久古健太郎さんへのインタビュー。

 左の中継ぎ投手として通算228試合に登板。29歳で発症した不整脈と闘いながら、32歳の18年まで現役を続けた。同年10月に戦力外通告を受けて引退。転職活動はわずか3か月弱で6社の内定を掴み、東大生らにも志望先として人気のコンサル会社に入社した。「プロ野球選手→コンサルタント」という、ほぼ前例のないジョブチェンジをどう実現したのか、経緯を語ってくれた。(文=THE ANSWER編集部・宮内 宏哉)

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「クライアントの悩みを解決していくところが、一番のやりがい。野球選手の時は、アスリートとして自分の問題を自分で解決してきた。それをビジネスという影響の大きい規模で取り組めることに責任とやりがいを感じます」

「デロイト トーマツ コンサルティング」でコンサルタントとして活躍する久古さんは、オンライン取材で今の仕事のやりがいをこう語ってくれた。19年2月に入社し、今年で3年目。あるプロスポーツクラブのファンを増やすプロジェクトや、官公庁と連携した業務などに関わってきた。

 整った髪に、理路整然とした話しぶり。しかし、入社当初は「(会議などで)何を話して良いかも分からなかった」と苦笑いする。横文字が多いビジネス用語には「何だそれは……」と頭に疑問符がたびたび浮かび、タイピングもままならない中で会議の議事録をとることから始めた。

 それでも、今では立派にプロジェクトに関わる一員だ。「デロイト トーマツ」といえば、東大など有名大学の学生の「入社したい企業」上位に名前が挙がる人気企業。プロ野球選手が、そんなコンサル大手に入社するまで、一体どんな経緯があったのだろうか。

転職エージェントは介さず自ら企業に応募

 久古さんは社会人野球の日本製紙石巻から、2010年ドラフト5位でヤクルトに入団した。左サイドから投じるキレのいい球を武器に、1年目は52試合に登板。セ・リーグの新人記録となる22試合連続無失点を記録するなど活躍した。15年には球団14年ぶりのリーグ優勝に貢献。日本シリーズでは、この年のMVPを獲得したソフトバンク・柳田悠岐を2打数2三振に抑えるなど“左キラー”ぶりを発揮。通算228試合のマウンドを経験した。

「リーグ優勝した時も印象は強いですけど、一番を挙げればルーキーイヤー。自分のパフォーマンスを最も発揮できたシーズンでした」。順調なスタートを切ったプロ生活。体に異変が起きたのは、16年春季キャンプの練習中だった。

 突然、全力疾走の比ではないほど、脈が速くなった。不整脈だった。数十秒から1分ほど、座って落ち着くのを待たなければならない。症状が出るのは1〜2か月に1度ほど。それでも、いつ発症するか分からない恐怖と闘っていた。練習試合の登板直前に発症し、急遽登板を回避したこともある。

「試合中の不安もありますし、(原因が)心臓なので、どうしても追い込んで練習できない。『発作が出るんじゃないか』と不安がよぎり、追い込み切れなかったり。その出し切れないジレンマは影響として大きかったのかなと思います」

 初めて1軍登板ゼロに終わった2018年。「客観的に見て、戦力外になってもおかしくない」と、夏頃から第二の人生について考えるようになっていた。その時、たまたま手にしたビジネス書でコンサルタントという職業を知った。当時32歳。絶えず変わりゆく世の中で生き抜くための、汎用性のあるスキルを得られる仕事に興味を持った。

 10月に戦力外通告を受けた後は12球団の編成担当らの前で実力を披露するトライアウトを受験した。対戦形式のマウンドに上がった時、タイミング悪く不整脈の症状が出て、一度は降板しながらも打者3人と対戦を完遂。無安打に抑えたが、NPB球団から声はかからなかった。

 野球人生には区切りをつけ、気になっていたコンサル会社を目指すことにした。まずは転職エージェントに相談したが「僕みたいな経歴で、コンサルに行きたいという前例がない」。提案される業種は営業職が多かった。挑戦もせず、諦めたくはない。1年前に引退してコンサル会社に勤めていた青学大の先輩で、元西武の大崎雄太朗さんに助言を求めた。

 大崎さんはエージェントを介さず、自ら情報収集をして企業に応募していたという。久古さんの心に希望が沸いた。

「可能性が0%でなく、1%でもあるならトライしたい」

 個人で企業に応募する際、苦労したのは職務経歴書の作成。ネット検索しても、元プロ野球選手が作った経歴書など見つからない。参考にできるものが単純に少なかったからこそ、大崎さんの存在は大きかった。自身の経験が社会にどう活きるのかをブラッシュアップ。最終的には3段構成でまとめた納得できる経歴書ができ上がった。

覆したい“アスリートの短絡的なイメージ”とは…

 11月下旬から始めた転職活動。「スピード感がありましたね。めちゃくちゃ忙しかったです」。当時のカレンダーは書き込まれた予定でびっしり。面接、書類作成、面接……という日々を繰り返した。寝不足もあり、プレー以外では初めて不整脈の症状が出たこともあった。

 それでも、熱意は実を結び、わずか3か月弱で6社から内定を得た。スポーツビジネスを広げていきたいという会社の方針に、自分の経験も活かせるのではないかと考え「デロイト トーマツ」を選んだ。

「アスリートは『スポーツをやっていた経験しかない』と謙遜してしまう人が多いんです。でも、自分は『スポーツでこういう経験があるから、社会で活躍できます』とポジティブにアピールできたので、その点が良かったと内定後の面談で言ってもらいました」

 野球選手時代に身に着けた自己研鑽する習慣、チームのためにどんな役割で貢献できるかを考える癖は、今の仕事でも役立っているという。今後、野球を引退して次のステージに移ることになる“後輩”へ、伝えられることはあるだろうか。

「一番大事なのは、どこにゴールを置くか。人生100年時代、終身雇用がなくなっていく中で、例えば70〜80歳になっても働けるようにスキルを身につけておきたい、そこに向けて自分が何をすべきか考えた時、社会で汎用性のあるスキル、社会人としての力をつけていくことが大事かなと思います」

 デジタル化、AIの発展などにより、これからの仕事はアスリートに限らず不透明。あらゆる人に訪れる可能性がある“仕事の変化”に対応できる、汎用性あるスキルを身に着けていくことが大事だと考えている。だからと言って、限定的な考え方を押し付けるつもりはない。

「一つだけ言えるのは、自分の可能性を決めつけないでほしい。『アスリート』と一括りにするのではなく、自分の得意なこと、一生懸命できることを見つめ直してほしい。野球人生が全てではなく、終わった後も新たな人生を進む中で、新しい才能を目覚めさせるチャンスはある。可能性を見つけてチャレンジしてほしいです」

 熱い思いを語ってくれた久古さんに今の仕事での目標を問うと「これを成し遂げたいというのは、正直ない」と意外な答えが返ってきた。ただ、前例がほぼないセカンドキャリアで自身が活躍することでアスリートの新しいロールモデル、働くチャンスの拡大に繋げたいという思いを抱いている。

「元アスリートでも頑張ればここまでできると、成功事例を作ることが大事だと思っています。アスリートが社会にハードルなく出られるような世界になっていってほしいと思いますし、受け入れる側も『根性がある、ガッツがある』などと短絡的なイメージではなく、もっと具体的に能力、スポーツの経験が社会にこんな形で風に活きると、認識してもらいたい。自分もどういう形になるか分からないですが、貢献できたらと思います」

 引退後、コロナ禍となる前は神宮球場で観客として試合を見たこともある。「今は運営側の立場。全然視点が違いましたね」。第二の人生を歩んでいることを実感する今、後進のセカンドキャリアを明るく照らすためにも仕事に邁進する。

■久古健太郎(きゅうこ・けんたろう)/デロイト トーマツ コンサルティング

 1986年5月16日、東京都出身。国士舘高では2年春に甲子園出場。青学大でリーグ戦通算3勝を記録し、卒業後は日産自動車に入社。休部に伴い、2010年に日本製紙石巻に移籍した。同年のドラフト5位でヤクルト入団。1年目は52試合に登板し、セ・リーグ新人記録となる22試合連続無失点を記録した。15年は38試合に登板し、ヤクルトのリーグ優勝に貢献。NPB通算228試合に登板した。18年に戦力外通告を受け、現役引退。翌19年2月にデロイト トーマツ コンサルティングに入社した。現役時代の身長・体重は181センチ、82キロ。左投左打。

(THE ANSWER編集部・宮内 宏哉 / Hiroya Miyauchi)