日本プロ野球選手会事務局に10年ぶりの“新人”として入局した肘井さん。まもなく4年目となる【写真:本人提供】

写真拡大 (全2枚)

「THE ANSWER the Best Stories of 2021」 “中の人”への転身を決めた肘井竜蔵さん

 東京五輪の開催で盛り上がった2021年のスポーツ界。「THE ANSWER」は多くのアスリートや関係者らを取材し、記事を配信したが、その中から特に反響を集めた人気コンテンツを厳選。「THE ANSWER the Best Stories of 2021」と題し、改めて掲載する。今回は1月、プロ野球・ロッテに2013年の育成ドラフト1位で入団し、現在は日本プロ野球選手会事務局で活躍する26歳・肘井竜蔵さんへのインタビュー。

 入団2年目の19歳で支配下契約、開幕1軍入りするなど順調なプロ生活を歩んでいたが、5年目の22歳で戦力外通告を受けた。大卒なら社会人1年目という年代。通告から3日後に就職活動を始め、現役への未練なく、選手会の“中の人”への転身を決断できた理由とは――。(文=THE ANSWER編集部・宮内 宏哉)

 ◇ ◇ ◇

 ロッテで将来の和製大砲として期待されていた肘井さんは今、東京・日本橋にオフィスを構える日本プロ野球選手会事務局に勤め、現役選手や引退したOBの活動を支えている。きっちり整えられた髪型にスーツ姿で「僕も名刺を持つようになってたんですよ」と爽やかに挨拶をしてくれた。

 日本プロ野球選手会は、NPB12球団に所属する日本人選手全てと一部の外国人選手が会員となっている団体。40年以上の歴史があり、一般社団法人、労働組合の2つの選手会が併存しており、現在は一般社団法人の理事長をソフトバンク・松田宣浩、労働組合の会長を楽天・炭谷銀仁朗が務める。

 選手寿命も短く、社会保障も不十分であることなどの問題を受け、主に選手の地位向上を目的として設立されたのが始まりだ。現在は選手の地位向上に関する問題へのみならず、全国各地での野球教室や各種チャリティなど公益的な活動も精力的に取り組んでいる。

 肘井さんは事務局にとって10年ぶりの“新人”として19年1月に入局した。5人いる職員の中では最年少。仕事は球団交渉、事務折衝、普及活動など多岐にわたるが、力を入れている事業の1つがセカンドキャリア支援だ。

 プロ野球ではシーズン最終盤、球団が来季の契約を結ばない選手にその旨を伝える「戦力外通告」期間が定められている。1軍の試合に出場できない「育成選手」として契約を結び、同じ球団に残るケースもあるが、通告を受けた選手は現役続行のため他球団に移籍する、もしくは引退して別の仕事に就くことがほとんどだ。

 事務局は数年前から、戦力外通告を受けた選手には個別に電話連絡することを始めた。引退を考えている選手には、様々な方面で活躍する球界出身のOBを招き、実体験などを語ってもらう退団者向け研修会への参加を案内するほか、転職サービスを提供する企業との橋渡しも行う。

「転職活動は本来、前向きなもの」と話す肘井さんたちは、引退した選手が充実した第二の人生を歩めるよう、進路の選択肢を増やすことを目指している。大学進学などの情報提供も行っており、昨年の戦力外選手では元ロッテの島孝明さん、元広島の岡林飛翔さんがセカンドキャリア特別選考を利用して國學院大に進学している。

19歳で開幕1軍入り、斎藤佑樹からプロ初安打も22歳で戦力外に

 肘井さんは“スカウト”されて現職に就いている。現役時代、様々な競技のアスリートが学校で夢に関する授業を行うJFA主催の「夢の教室」に「夢先生」として参加。小学校で1クラスを担当した際、子どもたちとの交流で優れたコミュニケーション能力や発信力を発揮し、事務局から高く評価されていた。

 引退決断後に連絡を受け、検討した末に入局を決意。就職してまもなく4年目となる。最初は出来ないことも多かったが、苦労と感じたことはない。

「飛行機のチケット、ホテルも現役の時は自分で予約することもなかった。何もわからないところからとれるようになったとか、最初はそんなことですよ。苦労と思えば苦労なんでしょうけど、知るってこんなに楽しいんだというのが大きいです」

 12球団の主力選手とも関わることが増え、「この人ってこんなこと考えてたんや、だからこういう風になれるんや」と感心することも多々ある一方で、若手選手の意見を吸い上げられることにも意義を感じている。

 野球界の制度について質問、要望を受けることも多いが、私生活に関すること、些細な事務的なことでも頼って連絡してもらうことが、年齢が近く、選手経験もある自分にしかできないことであり、仕事の喜びの1つになっている。

「どうしても選手会はレギュラークラスが動かしているイメージがあり、あまりミーティングで若手選手が話すことはなかったと思うんですけど、自分が入ったことで若い人たちが(選手会に)目を向けてくれるようになってきているのかなと。選手は、レギュラーじゃない人の方が多いので」

 現役時代は拡声器を片手に勝利後の場内を盛り上げ、ファン感謝デーで面白コメントを残すなど、熱いロッテファンの心を掴んでいた肘井さん。プロ5年目の18年10月1日に戦力外通告を受けたが、長打力を武器に高卒2年目で1軍昇格を果たすなど、将来を期待された1人だった。

 兵庫・北条高では強打の捕手として通算46本塁打。13年の育成ドラフト1位でロッテに入団し、外野手に転向した。「自分でも順調すぎると思うくらい、ゲームの世界のように成績も上がっていた」。急成長を遂げ、プロ2年目の15年3月に支配下登録を勝ち取り、背番号も「122」から「69」に変わった。

 同年、外野手は荻野貴司、清田育宏、角中勝也、岡田幸文ら実力者が揃っていたが、伊東勤監督に打力を買われ、19歳で開幕1軍入り。「8番・左翼」で初スタメンとなった4月2日の日本ハム戦では斎藤佑樹から適時二塁打を放ち、プロ初安打初打点を記録している。

 さらなる飛躍を目指し、2軍で経験を積んでいた同年9月、試合で顔面に死球を受けて鼻骨などを骨折。戦線離脱を余儀なくされ、以降は左投手との対戦打率が急落するなどセールスポイントの打撃に狂いが生じた。

 戦力外通告を受けた時はまだ22歳、大卒世代なら社会人1年目の年だった。ただ、ネガティブな感情は一切、生まれなかった。現役続行を目指すなら、12球団の編成担当らの前で実力をアピールする場であるトライアウトに挑む選択肢もあったが、参加せずきっぱりと引退を選んだ。

 なぜ切り替えられたのだろうか。理由は、現役最終年に選手生活を全うできたと思えたから。支配下選手となってから初めて1軍未出場に終わったにも関わらず、だ。

引退後に待ち受けていた「人生で一番楽しかった」就職活動

 最終年となった18年。飛躍を期待される他の選手が2月の春季キャンプで1軍に名を連ねる中、肘井さんは2軍スタート。以降、試合で成績を残しても1軍から声はかからなかった。2軍の試合でも出番が徐々に減少し「これは今年で終わり(戦力外)なんだ」と勘づいた。終盤に向かうにつれ、絶対に誰かのせいにして終わりたくはないと考えるようになった。

「仮に僕が10割打てば、来季クビにしようと思っていても1軍に呼ばれるわけなので。10割打てない『自分のせい』で終わりたいというのがありました。『あの時、もっとやっておけば変わったんじゃないか』と思いたくなかった。だから最後は一番苦しい、怪我した時よりしんどい最後でした」

 できることは全てやったという自負がある。それでも1軍に昇格できなかったのは、他の選手の調子や成績、球団の育成方針など、外的要因を全て凌駕するほどの成績を残せなかった「自分のせい」。そう思えたから、戦力外通告を受けて「ある意味、ホッとしました。この苦しいシーズンがもう1年続いてたら、相当キツいと思っていたので。若いからこそ(野球選手以外の道を探すのは)今だなと思った」。

 ドラフト指名を受けた時から「3年やって全くダメなら、サラリーマンとしてトップを目指そう」と考えていた。ロッテを含むNPBの球団から裏方としてのオファーもあったが、全て断りを入れた。通告から3日後にはスーツを着て、就職活動を始めた。

 後援会やイベントで世話になった知人や球界OBから紹介された企業関係者とは積極的に面会。それ以外にも、魅力を感じた企業には自ら履歴書、エントリーシートを送付した。自動車販売、保険、人材派遣、不動産、芸能関係など幅広い業種に興味を持ち、約1か月半の間でコンタクトを取った企業数は32。実際に面接などを受けた数も約20社に上る。自分でスケジュールを決めて動くことが新鮮で「人生で一番楽しい期間だった」と振り返る。

 有名大学を出ているわけでもなく、当時はパソコンを使用した作業もまともにできなかった。野球選手としての知名度も高いわけではない。企業側には「どうして自分を必要としてくれるんですか?」と必ず尋ねた。返ってくる答えは、どれもほぼ同じものだった。

 打席での結果を分析し、課題をもって練習に励み、次の打席に立つ。プロ野球選手にはPlan、Do、Check、Actionの「PDCAサイクル」が身に着いているということだった。「これを知っている選手はどれくらいいるんだろう」。企業から戦力になると考えられていることを、同じ境遇にある他の選手に伝えたいという気持ちが芽生えた。

選手には「ユニホームの間はとことん野球に向き合ってほしい」

 ちょうどその頃、事務局からも誘いを受けていた。ここでなら、就職活動で生まれた気持ちを形にできる――。選手としての経験も必ず活きると確信し、第二の人生のスタート地点を決めた。

 プロ野球選手である以上、いつか必ず引退の時は来る。事務局の立場からすれば、現役選手にもセカンドキャリアについて日頃から考えておいてほしいと願うのは自然だ。ただ、肘井さんは「ユニホームを着ている間はとことん野球に向き合ってほしいです」と語る。

「すっきりしないと次に進めないと思うんです。お腹いっぱいだから店を出られるわけで、お腹空いてたら注文するじゃないですか。『もういいや、やり切った』と思わないと次のステージの成功はないと思う。『あの時、こうしておけばよかった』と思うのが終わった直後なのか、5年後なのかは分からないけれど、そういうことをちょっとでも減らしてほしい」

 野球と向き合い、きちんと消化できているOBは、充実したセカンドキャリアを送っている人が多いと感じている。消化に至るのは、プロを辞めてすぐの場合もあれば、独立リーグでのプレーや球団の裏方を介しての場合もあるが、肘井さんは現役最終年を全うできたから、スムーズに次のステップに移ることができている。

 今、胸に秘めているのは選手時代に掲げていた目標よりも、壮大な思いだ。

「高校生が文句なしでプロ入りできる世界にしたいですね。例えば、大学とプロを迷うというのは、プロの魅力がそれだけのものなのかなと思いますし……もちろん、大学進学も大事ですが、天秤にかけられていること自体は悲しいこと。プロになったからこういう仕事に就けました、という世界にしないといけないですし、大学の4年間よりプロの4年間の方が価値あるものと思わせないといけない。めちゃくちゃ壮大ですけど、それが目標です」

 プロ入り前の選手、引退という現実に直面する選手の不安を少しでも取り除くことが、ひいては野球界の発展につながると信じている。1か月半の就職活動で芽生えた思いを忘れず、あらゆる形でのサポートを続けていく。

■肘井竜蔵(ひじい・りゅうぞう)/日本プロ野球選手会事務局職員

 1995年11月13日、兵庫県出身。北条高では甲子園出場なしも、強肩強打の捕手として通算46本塁打をマーク。13年育成ドラフト1位でロッテに入団。プロ2年目の15年3月に支配下選手登録され、同年の開幕1軍入り。4月2日の日本ハム戦でプロ初安打、初打点をマークした。16年にファームでサイクル安打を達成、17年には1軍で自己最多となる18試合に出場するも、翌18年10月に戦力外通告を受け現役引退。19年1月に日本プロ野球選手会事務局に入局した。現役時代の身長・体重は182センチ、88キロ。右投左打。

(THE ANSWER編集部・宮内 宏哉 / Hiroya Miyauchi)