ひとつのチームに関わり、貢献した外国人選手をほかに知らないと語るセルジオ越後氏

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ひとつのチームに関わり、貢献した外国人選手をほかに知らないと語るセルジオ越後

前々回、僕が選んだJリーグの歴代ベストイレブンを紹介したけど、そこにはあえて外国人選手を入れなかった。質だけを見れば、外国人だらけになりかねないからね。

Jリーグの歴史を振り返ると、それだけ多くの優れた外国人がプレーしてきたわけだけど、一番印象に残っている選手をひとり挙げるとすれば、リーグ全体に与えた影響の大きさ、現役引退後のクラブとの関係性を含めてジーコしかいない。

1993年、Jリーグ初年度開幕節の名古屋戦でのハットトリックは本当に衝撃的だった。僕は現場で試合を見ていたんだけど、1点目は鮮やかなミドルシュート、2点目は得意のFK。そして、3点目は左サイドを突破したアルシンドのクロスを左足ボレーで決めた。40歳にして速い展開のなかでもさすがというプレーを披露。彼の本気ぶりを実感した。

このハットトリックはスポーツニュースで大々的に報じられ、それを見てサッカーに興味を持った人も多かったはず。船出したばかりのJリーグにとって最高のPRになった。その後、どれだけのマスコミが鹿島町(現・鹿嶋市)に乗り込んでいったか。鹿島という地名を一躍、全国に知らしめた。

当時たくさんいた外国人の大物選手たちは皆、Jリーグ開幕に合わせて来日していた。でも、ジーコの来日は開幕の2年前。しかも、鹿島の前身の住友金属工業蹴球団は日本リーグ2部。いくら一度引退した身とはいえ、いくら好待遇とはいえ、あのジーコが日本の2部リーグでプレーするとは信じられなかった。

これは世界的にもビッグニュースだったんだけど、サッカーがまだマイナーな日本ではそれほど話題にならなかったね。2部リーグということもあり、プレーぶりもほとんど報道されなかった。

試合は控室にシャワーもないようなグラウンドで行なわれ、観客もほとんどいない。ゴルフにたとえるなら、タイガー・ウッズが自らゴルフバッグを担いで、河川敷でゴルフをやっているようなもの。よく途中でいやになって帰国しなかったと思う。

そんな状況で彼はプロ意識、技術、戦術など周囲の選手やスタッフに大きな影響を与えた。練習場の整備、ホぺイロ(用具係)の導入など、環境面も整えてチームのレベルを一気に引き上げた。一選手でありながら強豪・鹿島の土台を築いたんだ。

ジーコは94年の夏には引退しているので、実はJリーグでプレーした期間は2年にも満たない。でも、引退後も鹿島とアドバイザー契約を結び、ジョルジーニョ、レオナルドといった現役バリバリのブラジル代表を連れてきた。ジーコの存在がなければ、ふたりとも日本には来なかっただろう。

そのふたり以外にもジーコは鹿島にブラジル人選手、監督をたくさん連れてきているけど、ほとんどハズレがない。それは単にいい選手を連れてくるのではなく、鹿島のサッカーに合う選手、監督を連れてきているということ。そして鹿島は誰もが認めるJリーグの名門になった。

2006年ドイツW杯で日本代表の監督を務めたり、海外の代表やクラブの監督を務めるなど、鹿島を離れていた時期もあったけど、一昨年からはテクニカルディレクターとして再び現場ににらみを利かせている。ここまでひとつのチームに関わり、貢献した外国人選手を僕はほかに知らない。

構成/渡辺達也