月探査の歴史を3D写真で振り返る──クイーンのブライアン・メイが写真集を刊行
人類が初めて月面を歩いてから半世紀が経ったいま、アポロ計画で撮影された数々の写真を再び本にしても、売れ行きはそれほど期待できないかもしれない。しかし、伝説のロックバンドであるクイーンのギタリストのブライアン・メイは、そんなことではひるまなかった。
実はメイは、天体物理学の博士号をもつ天文学者でもある。彼は米国の天文雑誌『Astronomy』の編集者デイヴィッド・エイカーとともに、人々を引きつけるための方法はないかと考えた。
ふたりがたどり着いたのは立体写真という、月面着陸よりさらに古いテクノロジーだ。3Dメガネをかけて平面画像を眺めると立体的に見えるというこのトリックは、1950年代に大流行した。
メイはヴィクトリア朝の立体写真を収集しており、彼のコレクションは世界的にも有名である。クイーンのファンなら、2017年に出版された立体写真集「Queen in 3D」を覚えているかもしれない。今度はこれをアポロの月面計画に応用することにしたというわけだ。
人類の偉業を振り返るだけの本ではない
2019年は、アポロ11号の月面着陸からちょうど50年となる記念の年である。この新しい写真集「Mission Moon 3D」を開けば、当時の様子を追体験することができる。付属の3Dメガネをかければ、米航空宇宙局(NASA)だけでなく、旧ソヴィエト連邦の月探査ミッションの貴重な写真を立体写真で楽しむことができるのだ。
メイはこの本について、米ソの宇宙開発競争の物語であり、アポロの月面着陸を東西両陣営の視点から眺めたものだと説明する。
立体写真という性格上、ほとんどの写真は同じものが2枚並んでいるため、3Dメガネなしで読むと少し奇妙な感じもする。ただ、2枚は完全に同一ではなく、アングルが微妙に異なるのだ。このわずかなズレを脳が処理すると、月面に刻まれたバズ・オルドリンの足跡の写真が3次元の奥行きをもって浮かび上がってくる。
一方で、これは単に人類の偉業を振り返るだけの本ではない。メイはこう話す。
「50年前の世界の政治的、社会的、芸術的、音楽的な背景を知ることで、人類の月面着陸がどのような意味をもつ出来事だったのかについて、新しい視点を得ることができます。当時まだ子どもだったわたしたちがあの信じられないイヴェントを目撃したのと同じように、鮮明な全体像を描けるようになるのです。あのときの興奮を完全に伝えるのは難しいのですが、新しい世代がこの本からその空気を感じとってくれるとうれしいですね。テキストだけでなく、写真は本当に夢中になってしまうようなものばかりで、実際に月面に立っているような気持ちになれるはずです」
宇宙開発で先行していたソ連
メイもエイカーも、米国だけでなくソ連側の見方を紹介することが重要だと考えていた。エイカーは「月面着陸というと、まずアポロ11号や、ニール(・アームストロング)、バズ(・オルドリン)といった月に行った宇宙飛行士たちのことが思い浮かぶでしょう。ただ、競争の初期ではソ連のほうがはるかにリードしていました」と説明する。
1957年10月4日、ソ連は世界初の人工衛星スプートニク1号を打ち上げた。危機感を募らせた米国は宇宙開発に大きな力を注ぐようになったが、ソ連はその後も動物を宇宙に送ることに成功し、米国との差を広げている。
なお、スプートニク2号に乗って生物として初めて宇宙に行ったクドリャフカという名のメスのライカ犬は、ストレスと宇宙船内の気温の上昇により打ち上げから数時間で死亡した。ただ、スプートニク2号はもともと大気圏に再突入するようには設計されていなかったため、当時の公式発表では、クドリャフカは打ち上げから数日で安楽死させられたことになっている。本当の死因が明らかにされたのは、2002年のことだ。
これに対し、スプートニク5号に乗ったベルカとストレルカは、仲間のネズミやウサギとともに無事に地球に帰ってきた。そして1961年4月12日、ついにユーリイ・ガガーリンが世界初の有人宇宙飛行を成し遂げたのだ。いまでは訪れる人はほとんどいないが、クルシノという小さな村にあるガガーリンの生家は博物館として公開されている。
立体写真が果たす役割
ガガーリンは宇宙からは生還したものの、1968年に起きたジェット戦闘機の事故により帰らぬ人となった。「この事故を取り巻く悲劇的な状況のために、ソ連の宇宙開発は失速しました。ですから、ガガーリンの死を真っ向から扱った書籍はこれまでにほとんど出版されていません」と、エイカーは指摘する。それでも、ガガーリンの同僚だったアレクセイ・レオーノフなどがメンバーに選ばれ、月着陸飛行計画は継続された。
「Mission Moon 3D」には150枚以上の立体写真が収められている。ただ、もちろんすべてが当初から立体写真のために複数のアングルから撮影されたわけではない。60〜70年代の宇宙飛行士たちはデジタルカメラなどもっておらず、写真を撮るのはいまのように簡単ではなかった。
このため、1枚の写真から立体写真をつくり出すための加工をする必要があった。表紙を飾るチャールズ・デュークの写真もそんな1枚だ。デュークはアポロ16号の乗組員で、月に行った12人の宇宙飛行士のうち存命している4人のひとりである。
デュークはロンドンのサイエンス・ミュージアムで行われた出版記念イヴェントにSkype経由で特別出演し、立体写真は今後の宇宙探査ミッションにおいて「確実に」何らかの役割を果たしていくだろうと述べた。「わたしたちの場合、クレーターの深さや傾斜を記録することが重要でした。今後の火星や月へのミッションでも同じことが重視されるでしょう」
1922年に始まった3D映画の歴史
立体写真の歴史は1830年代にさかのぼる。英国の物理学者チェールズ・ホイートストンが、異なる角度から描かれた2枚の絵を少しずらして眺めると、立体的に見えることを発見したのだ。ただ、彼が考えた立体視のための装置は、右目と左目にそれぞれ別の絵を見せるために鏡を使うというかなり大がかりなものだった。
一方で、写真の発明もちょうど同時代の出来事で、この誕生したばかりの技法を使って立体画像が作られるようになった。1840年代後半には、スコットランドの科学者ディヴィッド・ブリュースターが携帯のできる小型ステレオグラスを考案し、これが当時のヴィクトリア女王の目に止まった。女王が関心を示したことから立体写真は庶民の間でも評判となり、わずか10年足らずで50万枚以上が販売されたという。
時代は進んで20世紀に入ると、3Dは映画の世界にも進出した。『The Power of Love』は世界初の3D映画で、1922年9月27日にロサンゼルスのアンバサダー・ホテル・シアターで初上映された。3D映画はその後は流行り廃りを繰り返し、2000年代に最盛期を迎えている。IMAXシアターで人気を博した3Dドキュメンタリーや、ジェームス・キャメロンの『アバター』(2009年)を覚えているだろうか。
2010年には北米の映画興行収入の21パーセントを3D作品が占めた。しかし、以降は落ち込みが続き、2016年の3D映画の興行成績は前年比8パーセント減の16億ドル(約1,806億円)にとどまっている。また、3Dをテレビにもち込もうというアイデアはたくさんあったが、どれもいまひとつ成功しなかった。
メイに話を戻すと、3Dの世界における彼の興味の対象は常に写真だった。メイは少年時代にコーンフレークの箱の内側に口を大きく開けたカバの写真が2枚並んでいるのを見つけたときから、ステレオスコープとも呼ばれるこの技術に夢中になったという。いまではLondon Stereoscopic Companyという会社を立ち上げ、立体写真に関する本を出版している。