フランクフルトの長谷部誠(左)とブレーメン時代の奥寺康彦氏(右)【写真:Getty Images】

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1977-78シーズンにドイツへ渡った奥寺、ケルン1年目で国内2冠を達成

「オク(奥寺)が1人いれば、3人の選手を獲ったのと同じだ」―オットー・レーハーゲル

 奥寺康彦氏は、生粋のFWとして1977年にドイツへ渡り、最初のシーズンでいきなり1FCケルンの国内2冠に貢献した。当時ドイツのクラブは欧州内でも屈指の実力を誇り、ケルンはバイエルンやボルシア・メンヘングラードバッハと覇権を争う人気チームだった。

 ちなみにドイツを制したケルンは、翌シーズンの欧州チャンピオンズカップ(現UEFAチャンピオンズリーグ/CL)に出場し、順当に準決勝に進出。ノッティンガム・フォレスト(イングランド)とのアウェー戦では奥寺の同点ゴールで3-3と引き分け、決勝への視界が開けたかに見えたが、ホームでの第2戦で0-1とまさかの敗戦。惜しくも記念すべき第1回トヨタカップ(現FIFAクラブワールドカップの前身で、欧州と南米王者による世界一決定戦)への出場を逃すのだった。

 順調にドイツでのキャリアを積み重ねていた奥寺だったが、自身をケルンに導いた名将ヘネス・バイスバイラーが80年に北米サッカーリーグのニューヨーク・コスモスに去ると、状況が一変する。奥寺は出場機会を確保するために、自ら交渉をして2部のヘルタ・ベルリンに移籍。ここからマルチプレーヤーへと変貌していくのだ。

万能ぶり発揮した奥寺に指揮官も全幅の信頼

 ヘルタでの1シーズンを経て、81年にオットー・レーハーゲル監督率いるヴェルダー・ブレーメンに移籍。再びドイツ1部の舞台に戻ると、「左右のウィングバックが中心だったけれど、センターフォワードやセンターバックも務める」(奥寺)万能ぶりを発揮し、指揮官からも全幅の信頼を寄せられるようになる。

 当時のドイツでは、まだマンマークの発想が染みついていたから、なかなかゾーンの考え方を理解できる選手が少なかった。

「守備ではスイスチーズ(ところどころ穴が空いている)のようになってはいけない」

 レーハーゲル監督の指示を完璧に実践するのが奥寺で、だからこそ指揮官は「オクがいれば3人分」という冒頭の言葉を発するのだ。

 フランクフルト時代に監督として長谷部誠を指導したトーマス・シャーフは、現役時代はブレーメンで奥寺とチームメイトだった。

2人を知るドイツ人の証言、「オクと長谷部は確かに共通点が多い」

「オクと長谷部は、確かに共通点が多い。どちらもプロフェッショナルとして模範的だし、様々なポジションができる。個人的には、長谷部は中央に置きたい選手だけど……。まあ、2人を比べれば、オクの方が、もう少しダイナミックだったかな」

 長谷部は、奇しくもかつて奥寺が在籍したヘルタとの一戦で、奥寺に並ぶブンデスリーガ通算234試合出場を達成。そして続くフライブルク戦で235試合目のピッチに立ち、日本人最多記録を更新した。

 歴代2位となった奥寺だが、その他に25試合の2部リーグ出場や、チャンピオンズカップ(現在のCLとは異なり当時は各国リーグ王者のみが出場できた)をはじめとする欧州カップ戦での通算17試合出場の記録が刻まれている。日本サッカー“冬の時代”にドイツへの道を切り拓いた先人の功績は、今も色褪せることがない。

(文中敬称略)

【了】

加部究●文 text by Kiwamu Kabe

◇加部 究(かべ・きわむ)
1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(ともにカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。