青木 宣親選手(日向−ヒューストン・アストロズ)「高校時代からは想像もつかなかった選手に成長した」【後編】
前編では、高校入学時のエピソードや、3年春までの軌跡を描いていきました。後編では、最後の夏や大学、プロへ進んでのエピソードについて満窪部長に語っていただきました。
■前編「印象は『普通の高校生』『継続する大切さ』を教わる」から読む
最後の夏、負けた後の彼の姿を見て指導者として嬉しさを覚えた99年春の日向は秋の借りを返す勢いで快進撃を続け、決勝では高鍋を延長戦で破って優勝する。「決勝の高鍋戦は負けていた試合を9回に追いつき、延長戦で勝ちました。青木はエース、大黒柱としてチームを支え、周りの選手が打って勝った。青木1人がヒーローというわけではなく、彼も含めたみんなで勝ったという印象が強いです。その後の春の九州大会は初戦敗退でしたが、優勝した東海大五(福岡、現・東海大福岡)にサヨナラ負けでした」
春の県大会を制し、10年ぶりの甲子園を目指した夏だったが、準々決勝で鵬翔に敗れ、ベスト8で姿を消した。
「この大会は雨に泣かされました。試合が雨で伸びたことも何度かありました。その頃はチームのバスもなくて、JRで宮崎市内の球場まで通っていました。今のサンマリンスタジアムがまだできていなくて、駅の近くにある今はもうなくなった宮崎県営球場が会場でした。2日続けて電車で通って、雨で試合がなくて帰る。3日目は午後から晴れるからということで、駅の近くの日向学院で待機し、そこから改めて試合といった状態でした。移動、待機の繰り返しで、コンディションを整えることができず、鵬翔戦は青木の球も走っていなくて、打たれて負けて残念な結果になりました。そんなことがきっかけで、それ以降、マイクロバスを我々も使うようになった覚えがあります。
負けた後、本人たちも当然悔しかったでしょうが、それ以上に地域の期待に応えられなかったことを彼らは申し訳なく思っていました。地域の皆さんに応援してもらっていることに結果で恩返しをしたい気持ちを持っていたので、それが叶えられなかったことを一番悔しがっていました。結果を出せなかったのは残念ですが、指導者としてはそんな気持ちを持ってくれるように育ってくれたことがうれしかったです。青木以降も、甲子園まで行くことはできませんでしたが、彼らの姿を見て力のある後輩たちが入ってきてくれました。時代は強豪私学でなければ甲子園や九州大会などの大会に行くのが難しくなりつつある中で、県立でもやれることを青木たちの代が示してくれたことは大きかったです」
甲子園という夢は果たせなかったが、青木は卒業後、早稲田大に進学し、ヤクルトにドラフト4位で入団。同校出身としては2人目となるプロ野球選手となった。
高校卒業時の希望を見事に実現させる青木 宣親選手(ヒューストン・アストロズ)
「野球部を引退し、卒業後の進路を考える時期になると3年生は進路希望書を書くのですが、そこに青木は『早稲田大に進学して、将来はプロ野球選手になりたい』と書いていました。野球をやっていた頃、そんな話をしたのを聞いたことがなかったので、そんな気持ちを胸に秘めていたのかと驚いた覚えがあります。学業も優秀だったので、学校推薦で早稲田に入学しました。彼が本当の意味での才能を開花させたのは大学時代だったと思います。彼自身がいろんなところで書いたり、しゃべったりしていますが、高校時代は特別なことは何もしていなかった。大学で細かい野球を教わり、それに対応することによって更に上の世界を目指したいという意欲が出てきたのだろうと思います。
あの頃の早大は1つ上に和田(毅・ソフトバンク<関連記事>)、同級生には鳥谷(敬・阪神<関連記事>)、比嘉(寿光・元広島)とそうそうたるメンバーがいて、史上初の六大学4連覇を達成した時期です。全国各地から集まったすごい選手たちの中で、刺激を受け、努力して今につながる土台を作ったのだと思います。ヤクルト入りして初めて200本安打を達成したオフに、地元の日向市の後援会で祝賀会を開いた際には、集まってくれた1人1人のところへ行って自分から挨拶をしていました。そんな姿を見て『大人になったなぁ』と感動しました」
先日、ある報道番組で、青木は稲葉 篤紀氏と対談し、WBCに挑む日本人選手に向けてのアドバイスをしていた。「動くボール」は一般的にイメージする以上に動くから、どのコースなら打って、どこなら打たないという「目つけ」をはっきりさせることや、投手の間合いが、日本人なら「1、2の3」だが海外の選手は「1、2、3」とタイミングの取り方に違いがあることなどを解説していた。野球に対する深い洞察力、思考力を感じた。
これからも宮崎の子供たちに夢と希望を与え続ける選手となってほしい満窪 文彦部長(現・宮崎南)
「プロ入りしてからでしたが、高校生とプロとの交流があった頃、宮崎の高校生のために講演のゲストで来てくれたことがありました。打撃のコツを高校生にアドバイスする際に、左打者なら引手の右が大事と思いがちですが、実は押し出す左手の使い方が大事なんだということを、身振り手振りを交えながら、熱心に語っていました。高校生の頃は引っ張って長打を狙うことが多かったけど、大学、プロを経て、いろんな技術、考え方を身につけ、あの頃からは想像もつかなかった選手に育ったことを実感しました」
満窪 文彦部長の記憶にある高校時代の青木はあくまでも「普通の子」である。だからこそ、そんな選手が、日本のプロ野球記録を作り、世界の舞台でも活躍される選手に成長したことに驚きと、賞賛があり、そんな選手が出たことが今、宮崎で野球をやっている子供たちに夢と希望を与えていると確信している。
「早大に入学した頃は、続けられるかどうかも心配したほどでした。周りには実績のあるスター選手ばかり。そんな中に特別な実績がなく入った。おそらく相当な差を感じて苦労したこともあったでしょうが、その差を埋めるためにいろんなことを吸収し、努力して成長した。志を高く持ち、コツコツ努力を続けていれば大きな夢が叶うことを、私たちが彼から学び、今の子供たちを教える励みになっています。
今私たちが普段接している公立校の子供たちと何も変わらない環境の中から青木も育ってきた。私たちも、ただ野球だけをやるのではなく、学業や学校行事もきちんと取り組む普通の高校生と同じような指導をしてきた。彼の家族は、お父さんがソフトボール、兄2人はラグビー、お母さんはピアノの先生という、いろんな刺激が周りにある環境の中で育ち、自分の意志で野球を選んだ。青木のような選手が、自分たちの身近なところから出てきたことが、今の宮崎の子供たちに夢と希望を与えてくれています。今彼に望むのは、とにかくケガをしないこと。今年はWBCもありますから、日本のために活躍し、1年でも長く現役を続けて、宮崎の子供たちに夢と希望を与え続けて欲しいということです」
(取材・構成=政 純一郎)
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