カネは両刃の剣。上手に切れて一人前。田中いわく、「ただしカネの効用などはワン・ノブ・ゼムにすぎない」。
 「山一證券」救済のため「日銀特融」発動などに剛腕を発揮、その政治手腕で官僚をヒレ伏せさせ、大蔵省を自家薬籠中のものとした田中角栄蔵相は、一方で巧み巧まざるの「情と利」の人心収攬術も駆使した。曲折多く、たたき上げで這い上がってきた人生の中で得た人を見抜く目の確かさ、言うならば人の心の移ろいを瞬時にしてすくい取ってしまうという「人間学博士」ぶりを、いかんなく発揮したということであった。
 その大蔵官僚籠絡の一つに、カネの使い方があった。つまり、何とも「生きたカネ」を使ってみせたということだった。カネというものは、切り方一つで生きもすれば、また死にガネにもなる両刃の剣である。「カネが上手に切れて一人前」との言葉もある。田中のそれは、とりわけ受け取る側の心の負担を見事に削いだという点で天才的、白眉だった。その例を三つほど挙げてみる。

 一つは、いわゆる「大臣機密費」を自らは一切手を付けず、次官以下に任せて「君たちが必要なときに使え」であった。この機密費は言わば大臣の交際費で、各省に千万円単位の予算が組まれている。歴代の各省大臣の中には独り占めのご仁も少なくなく、しかし、田中蔵相のもとでは自分たちの飲み食いはタダ、上司は部下にいい顔ができるで、まさに田中大臣サマサマだったのだ。
 二つは、身ゼニを存分に切ったということだった。ポケット・マネーで、盆暮れには次官以下課長クラスまで、役職に応じてン百万円から数十万円の私的ボーナスを包むのである。課長以上は数十人にも達するから、ヒト夏、ヒト冬でそれぞれ数千万円というべらぼうさだ。また、暮れの予算編成時期ともなれば大蔵省は連日、深夜、深更まで残業が続く。こうした場合でも、田中いわく「ワシも一杯やりたいが気を遣うだろう。後で、皆で一杯やるときの足しにしてくれ」と局・課の責任者に白封筒といった具合だった。熱カンを酌み交わす中、「大臣はホントに気が付くなぁ」の声が出て当然だったのである。
 三つは、彼らが海外出張に出るときだ。特に、課長クラスの若手には「いい機会だ。世界をよく見て来い。帰ったら、お茶でも飲みに来い。向こうの話でも聞かせてくれや」で、これまた白封筒を渡す。若手官僚としては、ざっくばらんな言葉とともにの餞別である。「オレは大臣の覚えめでたいのか」でワルイ気の起ころうワケがなく、結局は田中の人脈に伍すことになるのである。

 一方、こうしたカネ以外でも、田中の人心収攬の妙は発揮された。官僚たちには、キッチリ「天下り」というレールを敷いてやったということである。
 このことは、田中が「官僚とは何か」の本質を見事に見抜いていたことにほかならなかった。官僚は、一般的には退職後のしかるべき「天下り」先までを含めて職分と考えている。これは「天下り」批判のある今日とて変わらない。従って「天下り」のレールを敷いてくれるような政治家には添うが、そのレールを持たぬ力なき政治家とは距離を保つのが常なのだ。
 そうした上で、田中は課長クラス以上の官僚に対し、独自に調べ上げた個人情報のリストを駆使するのである。リストは出身大学・学部から、趣味は何か、結婚記念日はいつか、親しくしている政治家は誰か等々、10数項目にわたっていた。このリストの内容は、コンピューター付きブルドーザーといわれた田中の頭の中にピシャリ刻まれていた。これがまた、存分に機能する。
 例えば、省内の廊下で山田一郎なる課長とすれ違う。田中の声が掛かるのだ。「おっ、山田一郎君。○月×日は君の結婚記念日だろう。奥さんを連れて、今度、目白(自宅)に茶でも飲みに来いや」。一課長の自分の名前をフルネームで呼んでくれることから醸す親近感、ましてや結婚記念日まで覚えているので、山田課長はいささか動揺もし、前述の海外出張課長と同様、大臣の覚えめでたさに感激、結局は田中人脈に伍すということになるのである。

 こうして見てくると、田中の人心収攬の妙は何とも端倪すべからざるだが、官僚は単に「情と利」だけで左右されるほどバカではない。現職の自民党の閣僚経験豊かなベテラン議員の次のような言葉がある。
 「官僚は常に、その政治家の能力を値踏みしている。優秀な政治家には近づくが、取るに足らない政治家は本気で相手にしない。官僚にとって優秀な政治家とは、自分たちが汗水たらし、企画、立案した法律に、陽の目を見させてくれるかで計る。つまり、野党対策なども含めて国会で法案を成立させるだけの政治力があるかどうかだ。その実力度をもって、初めて自分たちの親分、大臣として評価、認知するということになる。角さんのもとに大蔵省はじめ他省の官僚が群れたのも、そこに本質があるということだ」

 田中自身の語録にもある。「カネというのは人を動かす要因のワン・ノブ・ゼム(多くの中の一つ)にすぎない」と。(以下、次号)

小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材46年余のベテラン政治評論家。24年間に及ぶ田中角栄研究の第一人者。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書、多数。