大黒屋が中国へ! なぜ中国最大の金融グループと提携できたのか
■大黒屋が中国最大の金融グループと提携
――中国最大の金融グループCITICの質屋事業会社と中古ブランド品売買や質事業を展開する大黒屋を子会社にもつアジアグロースキャピタルが提携したのは、どのような経緯だったのですか。
1990年代、私は香港メインボードの上場企業「ファー・イースト・コンソーシアム・インターナショナル・リミテッド」の社長をしていたのですが、その時期からの友人であり、当社の役員を延べ10年以上お願いしているローレンス・シンという中国人が今回の提携のキーパーソンです。シンさんは太子党の流れをくむ人でヤオハンインターナショナルの副会長も経験し、中国政府や国営企業のCITICグループの上層部に友人が多いんです。
CITICはご存知のように中国最大の金融グループで、その傘下には銀行、証券と並んで、CITIC XINBANG ASSET MANAGEMENT CORPORATION LTD.(CXB)という会社があります。中国もここ数年で急激に経済成長して豊かになり、中国人が世界中で海外の高級ブランドを買い集め、潜在的なリユースの市場が出来上がっているのです。そのような中でCXBは中古ブランド品の売買事業を質屋の事業の延長として本格的にやりたいということでノウハウを持っているところを探していて、シンさん経由で私どものところに話がきました。私は昨年9月にCXBの代表であるリュウさんと会って、すぐに決まりました。最後に調印式で行ったときに食事に呼ばれて言われたのは、シンさんは現在トップに立つ上の世代を知っているということです。私も同じ時期に香港にいましたから同じような人たちを知っているのです。本当に縁だと思います。
――日本企業と中国企業との合弁は難しく、多くの日本企業がこれまでに撤退してきています。
CXBはすでに市場調査やフィージビリティ・スタディなどをやっていて、私どもに声をかけてきました。中国も最近では企業買収などグローバルな金融取引を数多く手掛けているので、契約書ひとつをとってもみてもグローバル対応がきちんとできています。また、CITICのマネージメントの多くは海外の留学経験および海外企業との事業経験を持ち、日本以上のグローバル化をしていると感じています。彼らはすでに質屋事業を中国国内で20数店舗、展開しています。撤退ということは考えにくいと思います。契約は30年間の合弁契約で、5年間は同業他社とは組まないという条件になっています。
――彼らは大黒屋に何を求めているのですか。
商品の鑑定と商品の値段を決める値付けです。日本で鑑定された商品は「チェックド・イン・ジャパン」と呼ばれて信頼されています。さらにビジネスを立ち上げる力を求めています。大連の店舗などを見せてもらいましたが、彼らはうちの店舗のような店づくりをやってほしいようです。彼らとはリスクの考え方が非常に似ています。最初に店を出しても極力リスクを抑えるとか、在庫回転率を高めてできるだけリスクをヘッジするとか、展開はゆっくりやりましょうとかね。
――5年10年たったら相手もノウハウを取得していきますから、提携そのものの意味はなくなってしってしまうのではないでしょうか。
それはしょうがないと思います。ただ、5年間は競合と組むことはやめてほしいと条件を出しています。中国でいろいろやりたいことがありますが、まずはこのCXBの仕事を仕上げることが重要だと思っています。
■中国市場はブランド品の宝の山
――今後中国以外の地域にも展開していくのでしょうか。
相手次第なので何ともいえませんが、すでに欧州の拠点としてイギリスでも質金融などでは展開しています。さらに今後は中国以外のアジア、例えばタイなどにも事業展開するということも考えられます。
質屋はお金を貸す、リユースは中古品を買うという違いがあるにしても、お客様から見ると、「お金を借りるか」「売るか」の違いで、いずれにせよ、現金化を望まれる方がくるわけです。私たちはお客様がきたら、「お預かりしますか」「お買い取りしますか」と聞きます。借りることと売ることは延長線上にあるわけなんです。ブランド品の売買を質屋業に付加しているメジャープレーヤーは世界中でうちだけなんです。ブランド品を適切に評価するノウハウがないのと、値付けができないからです。そしてこの仕事は何よりも取り扱う商品のボリュームというものが大切なんです。商いのボリュームが出てこないとビジネスになりません。
――CXBと組むメリットは何ですか。
意思決定にしても行動力にしても、日本と比べて早いんですよ。IT開発しましょうといったら、もうすぐにやっているんです。彼らはオペレーションが弱いんですが、そこは日本人の得意分野。だから我々の得意なものとスピード感のあるCXBが組んだ方が早く海外でも展開できるんじゃないかと思っています。
最初は単独での中国進出も考えていました。小売業は外国企業でもできるのですが、質業は金融業なので外資単独ではダメ。中古品の売買は国内外の企業では税率が違うし、地方の税務当局の許可も取らなければならない。盗品の流通を防ぐため、公安ともパイプを作らなければならない。だから日本人だけではできません。CXBと組んでいれば何でもやってくれる。
さらにこれは結果論ですが、店舗も見つけてくれるし、商品もそろえてくれますから、非常によかったと思っています。CXBのすごいところは「あなたのやりたいことは全部いいなさい」といって全部やってくれる、主役は私たちなのです。ただ利益の半分はもっていかれますがね(笑)。人材は日本から2人を連れて行き、あとは中国人を採用しますが、それもCXBが全部やってくれます。
――中国の市場規模はどのくらいなのですか。
世界のブランドの45%を中国人が持っています。中国で所有しているブランドは3000億人民元(約6兆円)ぐらいです。実際に売買されている中古品が50億人民元(約1000億円)ぐらいです。
こうした事業を中国でやっているのはまだ私たちだけです。競合する企業はまだありません。日本人が所有しているブランドは2000億円から3000億円と言われていますから、約6兆円の市場がある中国はケタが違います。考えてみれば、過去10年間で中国人は世界中からブランド品を買っている。結果的にそうなってしまったんだと思います。そのうち貴金属などは質に入れたり、ネット取引などで1000億円ぐらいが売買されているわけです。そこにブランド品の流通市場を作れば、すごい市場が出来上がると思います。
■華僑ネットワークとの出会い
――ゴールドマンマンサックスでLBOファイナンスをやっていた小川さんが香港の企業の社長になったのはどのような経緯ですか。
私は慶應義塾大学経済学部を卒業後に79年にトーメン入社しました。米国のニューヨーク駐在となってからは知人からメリルリンチ大幹部だった守屋寿さんを紹介され、いろいろお話を聞くうちにグローバルな金融ビジネスに憧れるようになりました。そこで一念発起し、コロンビア大学でMBAを取得してゴールドマン・サックス・アンド・カンパニーに入社し、LBO(レバレッジド・バイ・アウト)を担当するようになりました。ここでタームシート(条件提示書)を銀行に提示し交渉する仕事などに携わり、金融機関と交渉する経験を積みました。ちょうど時代はバブルに入ったころでLBOが盛んでしたから多くの経験を積むことができました。その後、東京でシンジケートローンの仕事をしていたのですが、当時は自分でアジアを見据えたファンドをやろうとう思っていたのです。そんなときに香港の10大財閥のうちの一つから社長をやらないかと声がかかったのです。
――なぜ小川さんだったのですか。
1990年前半に日本のバブルが崩壊して、彼らは日本の不良債権を買い始めていたのです。しかし、彼らにはまだグローバルな金融の知識がなかった。そこで国際金融の知識と経験のある人間を探していたんだと思います。ただ彼らは日本人で使える人間を探していました。どうやら彼らは日本人は真面目で裏切らないないだろうと考えていたようです。それで自らファンドを立ち上げようとプロポーザル(企画の提案)をしていた私に白羽の矢が立ったようです。私はGSでLBOファイナンスを始め、さまざまな金融取引に携わっており、海外への投資の経験もありましたし、日本人です。そんなところを評価してくれたんだと思います。こうした経験から、今度は香港のコングロマリット「ファー・イースト・コンソーシアム・インターナショナル・リミテッド」の社長に就任し、そこから香港や中国本土だけではなく、いわゆる華僑たちと深くかかわるようになりました。
――華僑の金融ビジネスはどのようなものだったのですか。
私がラッキーだったのは、華僑のビジネスを内側から見ることができたことではないでしょうか。彼らは大型の買収をするときにはよく、シンジケートを組みます。シンジケート会議に出て、彼らがどのようなビジネスをやるのかを見ることができたのは大きかったと思います。彼らはドナルドトランプが一度倒産したときに、マンハッタンのコンレール跡地マンション再開発時事業を買収していますし、ロサンゼルスの高級ホテル「ビバリー・ウィルシャー・ビバリーヒルズ」を買収しています。4件ぐらいやっていたと思います。しかし彼らはグローバルなファイナンスのノウハウがない。だからずいぶん重用してもらいました。みんな会議では中国語でやるのですが、私が会議に参加するときには英語になる。そのような中で彼らのビジネスに対する考え方も見えてくる。非常に勉強になりました。
■華僑は直接自分でやらなければ納得しない
――華僑のネットワークに認められるようになるまでにはどのくらいの時間がかかりましたか。
華僑というのは5年ぐらい投資のお金の使い方や人を見ます。シビアな世界だと思いますが、いったん親しくなると、本当に理解し合えると思います。
――日本の会社であるアジアグロースキャピタル(旧森電機)の社長に就任したのはどのような経緯ですか。
ファー・イースト・コンソーシアム・インターナショナル・リミテッドが日本の会社を買いたいということで東海観光や森電機の買収に参加したのですが、私が社長を務めることになり、97年には東海観光社長、同年6月には森電機社長に就任しました。
その後私は東海観光の社長を辞め、森電機に専念することになり、そこから自分でやるようになりました。その後2006年にみずほ銀行から不良債権処理の一貫として千葉県にある橋梁メーカー、サクラダという会社の再建の要請があったのです。しかし将来性が見えにくい事業だけでは再建はできない。そこで成長性のある事業と併せて立て直しをしようと質屋業を営む大黒屋を傘下に収めました。
――ファンドの経営者が実業の世界に入っていくのはめずらしいのではないでしょうか。
最初、私は直接経営をしなかったんですが、これには違和感を抱いていました。華僑は直接自分でやらなければ納得しない。ハンズオン(実際に体験する)という考え方を持っているのです。私が先ほどの香港財閥のトップに就いたときに華僑からマンツーマンで半年ほど経営の手ほどきを受けたのですが、そのとき彼らは小切手帳を絶対に手離さないんですよ。その影響で私は今でも入出金は自分でやります。実印も誰かに預けることはしない。そうでないと、資金の流れがわからない。それに中国人は自分の運命を人に委ねるようなことはしたくないんじゃないかと思います。
――実際にグローバルな世界でビジネスをやってきて、日本人についてはどう思いますか。
日本からアジアに行こうという動きはかなりあるようですし、日本人には大きな可能性があると思います。しかし私もアジアでずっと投資してきていますが、そう簡単ではないと思います。私は華僑の中で働いてきましたから様々なリスクに直面し、それを感じ取りながら経営をしてきました。しかし日本人は安全な環境の中でビジネスをやっていますから、なかなかグローバルな、特に様々な面で未整備な新興国の社会の中でのリスクというものが実感としてわからない。温室で育ってきた経営者はグローバルプレーヤーにはなれません。無法地帯のようなところにいって自分なりの尺度をもってチェックしていく、そんなことがグローバルなマーケットでは求められているのです。
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アジアグロースキャピタル社長
1956年東京生まれ。慶應義塾大学卒。79年トーメン入社。87年ゴールドマン・サックス・アンド・カンパニー入社。94年ファースト・イースト・コンソーシアム・インターナショナル・リミテッド社長。97年東海観光社長。同年6月森電機(現アジアグロースキャピタル)社長。2013年4月に大黒屋社長に就任。
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(ジャーナリスト 松崎隆司=文)