よくネットで話題になる「町田は神奈川」ネタ。神奈川県に食い込むような形の東京都町田市は、しばしば「領有権ジョーク」の題材になっている。

町田駅前(Dick Thomas Johnsonさん撮影、flickrより)

しかし、かつて実際に町田が神奈川県だったことは、あまり知られていない。それどころか、「住みたい街」常連の吉祥寺でさえ、神奈川だった時期があるという――神奈川と東京の「領土」変遷を追った。

「多摩」ほぼ全域が神奈川県に!

神奈川と東京の領土変遷は、それすなわち多摩の歴史となる。「万葉集」にも詠まれている多麻(多摩)。平安時代から幕末まで、1000年以上にわたって「武蔵国多摩郡」だったが、明治維新にあわせて分割される。

多摩川(Taichiro Uekiさん撮影、flickrより)

幕末の混乱と廃藩置県にともなって、それまで「多摩郡」とされていた地域は、「韮山県」「品川県」「入間県」などの管轄へ。そして明治5年(1872年)春までに、ほぼ「神奈川県」へ移管される。

移管に先立って、明治4年11月(1871年12月)に神奈川県は、多摩郡が外国人遊歩区域にあたるとし、管轄させるよう求める申立書を出している。遊歩区域とは、外国人が自由に出かけられる場所のことで、港(この場合は横浜)から最大10里(40キロ)の範囲とされていた。

「神奈川県ヨリ外国人遊歩ノ土地ヲ管轄相成度儀ニ付伺」の冒頭部分(国立公文書館デジタルアーカイブより)

それからしばらく、北多摩郡と南多摩郡、そして西多摩郡の「三多摩」は、神奈川県として扱われることになる。いまの市域で言うと、町田だけでなく、八王子や立川、武蔵野、三鷹など広範囲にわたる。

東京都に戻った理由は...

それから約20年。1892年12月16日に、三多摩を神奈川県から東京府に移管する「法律案」が出された。最大の理由は、山梨県に源流を持つ玉川上水が、「神奈川県」の西多摩郡と北多摩郡を通過して、東京府へと流れていること。1886年にコレラが流行したとき、西多摩郡内で患者の排泄物が投下されたと伝えられ、府は「非常ノ警戒」をしたという。

玉川上水(Taichiro Uekiさん撮影、flickrより)

東京府知事による上申書によると、三多摩と東京府は水道問題以外にも、甲州街道や甲武鉄道(現在の中央線)などで利害が一致しているとも書かれていた。これを受けて、翌年4月1日、3つの郡が東京府へ移り、ほぼ現在の「東京都」と同じ形ができあがる。

法案が出た当時は、交通事故療養中の伊藤博文首相に代わり、井上馨内務大臣が「臨時代理」を務めていた(「東京府及神奈川県境域ヲ変更ス」、国立公文書館デジタルアーカイブより)

なお、水道に直接関係ない南多摩郡も、このタイミングで府へ移った。福生市郷土資料室が作成した「もっと知りたい 福生の歴史」によると、

「この問題に、自由民権運動の盛んだった多摩地域の勢力を削減するという政治的な問題も絡み、水源に直接関係のない南多摩地域も含めて多摩地域は東京府に移管となりました」

とある。

そしてこれから、120年近くにわたり、「町田=東京」となったのだが――。いまの23区にも「神奈川県」だった地域があるという。

【杉並区・中野区も「神奈川県」だった! 東京23区に残る「多摩の痕跡」を追う】