純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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 参勤交代というと、いざ鎌倉よろしく、地方の大名が武装行軍の演習として一年おきに江戸に出仕する制度、などと習ったかもしれない。だが、実態は逆だ。おまえ、殿様なんだから、せめて一年おきくらいには自分自身で自分の領地に実際に出向いて、自分の目で見て来いよ、ということ。しかし、これが、そんな簡単な話ではない。



 なにしろ正室と嫡男は、「人質」として江戸住まいが決められている。つまり、殿様本人は、生まれも、育ちも、ずっと江戸。代替わりになって参勤交代をするまで、自分の国元なんか行ったこともない。行かなくたって、城代家老がよきに計らって、家格の恥にならないくらいの大金を江戸に送ってきてくれているので、なんら生活に困ることもない。江戸にいたって、さしてすることもないが、国元なんか帰ったら、いよいよなにもすることがない。



 しかし、行かないと、まずいのだ。もともと大和時代以前まで、日本は各地に豪族が乱立していた。それを、大和時代に、すべて天皇の「公地公民」とし、奈良平安の律令制の時代に、各国に「国司」を置いて全国支配の体制を整えた。とはいえ、貴族がわざわざ土田舎なんか行きたがるわけもない。自分たちは京に留まり、徴税は地元の豪族に任せるようになる。おまけに、743年の墾田永年私財法で開墾地が私有となると、在郷豪族が自力で領地を広げ、これを徴税決定権のある在京国司に名目上のみ寄進して、国税免除の「荘園」にしてしまう。これは実質的には在郷豪族の私領で、その相互の争いから武装組織化。これが武士団。



 この武士団は、行政担当の在京国司とは別に、鎌倉幕府において軍事警察専門の「守護」としての公式の地位を与えられる。しかし、室町時代になると、兵糧調達を理由に公地徴税権も握って、一国領主の「守護大名」に。ところが、こうなると中央幕府の任務や調整が多忙となり、在京が常態化。そこで、地元豪族を「守護代」として現地運営を一任。そして、気が付けば、下剋上で、この地元の守護代が「戦国大名」に。



 ようするに、名義だけの不在地主なんて、求心力が無い。地元で実権を握っている代理の方に人心が集まる。だから、江戸時代も、勝手な「悪だくみ」をするのは、地元の城代家老と相場が決まっている。ほっておけば、何をするか、わかったものではない。だから、幕府は無理にでも大名を責任者として江戸から現地監査に送り込むのだ。逆に、国元の城代家老の側からすれば、江戸上屋敷の殿様など、神輿の上の鳳凰の飾りのようなもの。黙って乗っかっていてくれればいい。面倒を起こすようなら、みなで図って、早めに廃嫡、隠居させる。幕府も、地元の実権が城代家老にあるのは重々承知。内々の相談に応じて、代替わりを公認。



 江戸上屋敷で小姓の御機嫌取り親衛隊に守られ、おもしろおかしく暮らしている殿様にとって、ろくに顔も知らぬ連中だらけの国元こそが、最悪の敵地。江戸での数寄風流の贅沢散財や不徳行状の遊蕩三昧は、幕府他家にも知られてしまっている。当然、国元も聞き及んでいるだろう。江戸ででかいことを言い散らしていたが、それを国元の大御所連はどう思っているやら。国が近づくにつれ、心は重くなるばかり。城に着くなり諌言の嵐で、翌年の参勤まで座敷牢に押し込めかも。それどころか、そのまま隠居。ひょっとすると、無理やり「病死」。なにがあっても、国元のことは幕府も見て見ぬふり。



 盆暮の数日、旦那の田舎の実家に「帰る」だけでもしんどい、という東京生まれ、東京育ちの奥方も少なくないそうだが、参勤交代の国元拘束は一年にも及ぶ。会社で言えば、東京「本社」で派手に遊び歩いていたボンボン社長が、古参叩き上げだらけの創業地工場に軟禁され、社状の現実の愚痴を延々と聞かされて、猛省を迫られるようなものか。いや、部長や課長でも、同じこと。権限移譲、などと寝ぼけたことを言って、腹心の部下に任せきりにしていると、人心掌握はできない。手間はわかるが、みずからこまめに現場に出向いて、日ごろから自分が直接個別に相談に応じるくらいでないと。肩書に乗っているだけのお飾りなら、いくらでも取り換えがきく。



(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)