伊藤 達夫 / THOUGHT&INSIGHT株式会社

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 彼女と蕎麦を食べてから2週間後。彼女とミュージカルを見てから5カ月後。土曜日のお昼過ぎ。

 やや混んでいる渋谷のサブウェイで得サブを食べていた。

 飲み会が多くなってくると太ってくるので、週に数回サブウェイで食べる。そうすると体重が増えない。むしろ痩せる。

 目の前の鏡に映った自分の顔を見る。頭が見るからに良さそうだとか、女子にキャーキャー言われるとか、そういうビジュアルが欲しかったが仕方がない。

 でも、売れるからいいか。売れるお蔭で生きていける。見てくれがどうであろうと関係ない。

 いわゆる悪徳というか、評判の悪い営業会社で売りまくっていた頃・・・。「売りたいんだ。売るんだ。トーク通りに読めば売れる。騙してでも、困らせてでも、演技してでも、応酬になっても売るんだ。」営業マネジャーの絶叫を思い出す。封印したい過去ではあるが、あの頃があったから売れる。それは確かだ・・・。

 そんなことより最近はパズドラが面白い。これは本当に面白い。劇的に面白い。こんなに面白いソーシャルゲームがあるもんなんだ、と思うぐらいに面白い。4連鎖以上で攻撃力2.5倍とか、5属性以上の攻撃で攻撃力6倍とか、そういう縛りがあると、アイフォンの画面を見て考え込む。どうしよう?と。

 そういう考え込んでいる時にLINEのメッセージ通知が来るとイラっと来る。もちろん、こんなにタイミングが悪いのは彼女に決まっている。『今、何してますか?』と一瞬だけパズドラの画面上に表示されてメッセージは消えた。

 どうしよう。既読にすると面倒くさそうだ・・・。放置しておくべきか・・・。

 迷っているとLINEの無料通話の呼び出しがかかる・・・。おいおい・・・。こっちの状況がまるで筒抜けのようだ。出るしかないか・・・。

「もしもし?」

「こーんにちわー。今、時間ありますかー。」

 元気そうな声が聞こえてくる。とりあえず元気なようだ。喜ばしいことではある。半年前まではげんなりしながら営業をしていたのに、今は元気だ。それだけでお客さんからの印象は違うだろう。それはそれでいいことだ。

「ああ、大丈夫だけど、どうしたの?」

「あ、はい。今、どこですか?」

「渋谷だけど・・・。」

「じゃあ、ツタヤ前に行きますね。30分後でお願いします。」

 そういうと、彼女は電話を切った。すごいな・・・。LINEの通話音質が妙にクリアなせいで、彼女の元気な声が余計に印象に残った。さて、今日はどうしたことだろう・・・。

 30分後。渋谷ツタヤ前。人ゴミで気が滅入りそうだ。『副都心線が開通したから渋谷は通過駅となる!』みたいな記事を読んだが、実数は減っていたとして人が多すぎることに変わりはない・・・。

 彼女は珍しく時間通りにやってきた。こちらに気づくと、

「さて、今日はどこに行きますか?」

 ポロシャツにジーパン姿の彼女は自然にそう言った。・・・。さて、どうしたもんだろう?

「で、契約は取れたの?」

「う、それを言わないで下さい。」

「だめか・・・。」

「はい。この前の『蕎麦でも食って出直して来い』のお客さん、『今回はやめておきます』って言われました。」

 そうか。取れるかと思ったのだが・・・。提案の作り直しを要求して、それで買わないか。それもまた珍しいケースのようにも思うが・・・。

「残念だったな。提案を作り直したんだっけ?」

「ええ。いろいろ提案を考えていったので、向こうが少し悩んでいる時に、いろいろオプションプランも提案したんですけどね。向こうはずーっと黙って考えているから、これはチャンスと思ったんですけど・・・。」

「お客さんが迷っている時にオプションを提案したの?」

「はい。いろいろご提案してみたんですけど。」

「そうか・・・。墓穴を掘ったな・・・。」

 思わず本音が口をついてしまった。彼女の表情が素早く変わった。

「え、墓穴を掘りましたか?」

 いきなり本題だが仕方ないか・・・。

「ああ、自分で埋まって取れなくした感じだな・・・。まあ、仕方ないよ。」

「どういうことですか。教えて下さいよ。」

「うん。そうだな・・・。立ち話もなんだから、今日は服屋さんでも行くか。」

「え、買ってくれるんですか?」

「ん?ああ、ある店で1つだけ買ってやるよ。その代わり、そのお店で絶対一つだけしか買わないからな。しっかり選べよ。」

「はい!」

 彼女は嬉しそうに頷いた。これはいい機会だ。クロージングのNGというやつを教えるにはもってこいの店がある。彼女と原宿方面に向かって歩いた。その目当てのブランドショップを目指して・・・。

 明治通り沿いにその店は3階建てで立っていた。景気が良くなっているらしく、試着室はどれも埋まっていた。彼女ははじめは『きゃぴきゃぴ』していたものの、1着しか買わないと言ったせいか、今や必死の表情で服を選んでいる。

「そちらは新作ですねー。お探しですかー。」

 店員さんが彼女に話しかける。必死の彼女は愛想笑いをしつつ、それどころではない感じで服を見ている。1つ1つ真剣に吟味している。

 彼女が新しい服に手を伸ばす度に店員さんはいろいろと話しかける。

「ベージュでお探しですか?」

「そちらはイギリスからの輸入物ですね。」

「ワンピースなどもいいと思いますよ。」

 彼女は自分のセンスで選びたいようで、次第に店員さんの声に反応しなくなってきた。しかし、買いそうな感じをかもしていることは見て取れる。店員さんとしても逃したくないのだろう。必死で彼女にお勧めをする。

「こちらの新作などいかがでしょうか?人気ですよ。」

「その形で行くんでしたら、こちらの服があうと思います。」

「そちらは今セール対象ですね。お買い得です。」

 彼女が言葉にあまり反応しないせいか、あらゆるパターンの呼びかけを店員さんは動員している。なんとしてもこの店で買ってほしい、と。既に彼女はこの店で1つ買うしかない縛りになっているのだが、店員さんはそんなことは知る由もない。

 ついに彼女は店内から2着を選び出し、どちらにするか考え始めた。あまりの真剣さにこっちが引いてしまうぐらい。俺がいることも忘れているんじゃないかという表情だ。

 店員さんはここぞとばかりにお勧めする。

「こちらのデザインでしたら、こういったものもございますよ。」と言って、別の商品を棚から持って来たり、

「もし、このお色でしたら、この新作もお勧めですが?」と新作をご案内したり。てきぱきと矢継ぎ早に 彼女に提案を続ける。いつもやっているのだろう。手際はとてもいい。

 しかし、彼女は言った。

「ごめんなさい。ちょっと集中して選びたいんで、黙って頂けますか?」

 彼女の怖い目に店員は少したじろぎ、離れて行った。5分後、彼女は青に少しだけ紫が入った色のワンピースを持ってきた。

「これ、買ってください。」

「ああ、いいよ。」

 値札を見ると1万9千8百円だった。高い買い物だが、まあいいだろう。他に特にカネの使い道もないからな・・・。

 原宿はどこも混んでいたが、かろうじて座れる喫茶店を見つけ、休憩できた。

「さて、今日わかった営業の教訓は何だと思う?」

「へ?何かあるんですか?」

 おいおい。お前はニワトリさんかよ・・・。三歩歩くといろいろ忘れるのか・・・。

「あるだろうよ。この前、『蕎麦でも食って出直して』のお客さんが買わなかった理由がわかっただろ。」

「えー。わかんないです・・・。」

「わかれよ。自分が今日、嫌だったことを思い出せばいいんだよ。何を買うか選ぼうとしている時に一番嫌なことはなんだ?」

 彼女を見る。これがわかればおそらくは売れる。もはや最後の段階だ。俺の1万9千8百円を無駄にさせるな。わかるだろう。

 彼女はしばらく腕を組んで黙っていた。そうだ。考えろ。まさにこの瞬間が一番大事なんだ。気づけ。気づくんだ。

「・・・。ひょっとして、私がいろいろうるさかったから売れなかったんですか?」

「まあ、そうだな。」

 思わず顔の表情が緩んだ。だが、まだ確信にたどり着いていない。もう少し深いところに気づいてほしい。

「そうなんだが、なぜうるさいと感じると思う?」

 これで終わるか。この長い半年間の苦労も終わるか。そう思うと嬉しかった。彼女はまた考える。じっくりと。このレッスンを始めた頃は考えられなかったことだが、彼女は答えを求めず考えている。信じられないほどの成長だ・・・。

「・・・。集中して選びたいから、ですか・・・。」

「そうだよ。まさに今のあなただよ。集中して答えを出そうとしただろ?俺はお前の答えを待ったよな?この『答えを待つこと』がすごく大事なんだ。いわゆる営業本では『間』とか『沈黙』とか言われるけど、たいしたことじゃない。相手が必要なものを買うのならば、その必要なものが目の前にあるのかを考えなくてはいけない。その考えるプロセスを中断されることは不快だし、考えがまとまらなくなる。情報を提示して、相手が判断をするモードに入ったら、その判断のための思考を中断してはいけないんだ。」

「確かにそうですね。今日、店員さんがうるさくてしょうがないって感じたのはそういうことだったんですか。」

「ああ、そうだ。だが、半年前の君ならうるさく感じなかったかもしれない。」

「えー、なんでですか?」

「自分で考えようとせず、答えが提示されたら、それに飛びつく。そのスタンスの人間は考えようとした時に中断されたら不快だということがわかるわけがないんだよ。」

「う・・・。確かに・・・。」

「B2Bで営業をやっていて、相手がある程度の意思決定をしないといけない人間の場合、考えるプロセス、考え込む瞬間は必ずある。そういう人間しか決済できないからね。だから、相手が何かを考えたいようだったら、好きに考えてもらえばいいんだ。それで出た結論は尊重する。それだけだ。これをコントロールできると思わない方がいい。販売員は君を必死でコントロールして高いものを売ろうとしていたけどね。」

「耳が痛いです。まるでこの前の私です。」

 彼女は両手で耳を塞いだ。日光のお土産のようだ・・・。

「お、気づいたね。自分があんな販売員と同じだと思いたくないだろう?」

「・・・。はい。恥ずかしくて仕方がないです。」

「いいんだよ。ここに気づけば売れると思う。会話のキャッチボールも自然になる。ヒアリングもうまくなる。ここに気づくにはテクニックではダメなんだ。形式的に黙ればいいとか、間が大事だとか思ったところで自然な会話はできない。クロージングでいろいろ余計な提案をして失敗することでいろいろなことに気づくんだ。ここに気づいた営業マンは売れるようになる。劇的にね。」

「本当ですか?」

「ああ。これまでゼロの君でも、今年中には1つは取れるさ。」

「う・・・。頑張ります・・・。」

「反応がまともになってきたな・・・。喜ばしい。もう1つだけ聞くとさ、判断の結果、お客さんは結論に至るんだが、その結論は3つある。何と何と何だと思う?」

 これがわかれば完全に終了だ。わかるかな・・・。

「結論ですか・・・。買うという結論と買わないという結論はありますよね?」

「そうだ。だが、もう1つある。」

「もう1つですか・・・。なんだろう・・・。」

 彼女は答えを探している。いや、自分で新しい答えを生み出そうとしている。そういうふうに見える。見つけて欲しい。自分で。考えて辿り着いて欲しい。

「・・・。検討する、ですか?」

 惜しいな。もう少しだ。

「ああ、そうだが、検討するというのは、何を示していると思う?」

 彼女はまた黙り込む。俺も黙る。そうだ。自分で答えを出すスンタス。それが一番大事で売れ続けるために必要なことだ。もはや俺はいらないな・・・。少しさみしい気もするか?いや、しないな・・・。これでお役御免だ・・・。

「判断ができないってことですか?」

 ようやく求めた答えが出てきた。ここ半年で初めてじゃないか・・・。素晴らしい進歩だ。

「素晴らしい!その通りだ。営業マンにとって意味があるのは、買うか買わないかだ。だが、『判断できない』も買わないになってしまう。だから、判断の邪魔をして判断できないという結論に至ることだけは避けなくてはいけない。もっと言えば、情報を過不足なく提示した上でしか判断していただいてはいけないんだ。ただ、お客さんは怪しいと思ったり、不安になったり、予算があわなかったり、誤解があったり、買う気が失せたりといったことで、いつでも商談をやめるという判断をする。そういった判断をしてしまわないような立ち居振る舞いが営業マンには必要だし、いざ必要な情報を提示したら、お客さんの判断を邪魔するような振る舞いはしてはいけないんだ。」

「わかってきました。全部つながってたんですね・・・。」

「ああ、そうだよ。わかってきたじゃないか。じゃあ、俺は帰る。」

「へ?」

「いや、そろそろ君が売れそうだから原稿を書かないといけないだろう。原稿を書いて出版社に営業しないと。」

「えー、まだ出版社に営業してないんですか?」

「ああ、これからだ。まあ、いいじゃん。売れるかなんてわからんし、出版されるかもわからんよ。ここからは俺が営業するんだよ。」

「えー、じゃあ、台湾に行けないじゃないですかー。」

「まあ、いいじゃん。ベストセラーになるかなんてわからないからな。でも、君はこれから取れるぞ。きっと取れる。ひょっとしたらバンバン取れるぞ。頑張れ。そうしたらインセンティブが貰えて、友達と一緒に台湾に行けるぞ。」

 机の上にお会計の金額を置くと、店を後にした。テンションが上がって、事務所までの道を小走りで帰って行った。

 終わった・・・。

 ほぼ、終わった。

 長かった・・・。本当に長かった・・・。

 人の成長を見るのは気持ちがいい。自分で考えられない人間、考えようとしない人間を考えるようにする。これは一仕事だが、やり終えると非常に心地よい。ここが切り替わった人間が元に戻ってしまうことはなかなかない。スイッチが切り替わったように変わる。劇的に変わる。彼女もおそらく行ける。きっと行ける。

 景気が良くなってきたのか、明治通りは買い物袋を持った人でごった返していたが、その間を小走りで走り抜けるのがとてもとても気分が良かった。

解説

 さて、いかがでしたでしょうか。この章ではクロージングについて解説しました。一番のポイントはお客さんが考えている時は中断しない。結論が出るまで待つ。これは会話のキャッチボールにおいても基本的なことです。

 沈黙によって相手をコントロールするといった言い方をしている営業本もありますが、そうではありません。毎度のことですが、箇条書きで説明すると、

・お客さんは必要なものを買う。

・営業マンの提案がお客さんが必要とするものなのか?をじっくり考える必要がある。

・お客さんが考えている最中に余計な情報が入ってくると、判断がしずらくなってくる。

・お客さんが考えたのちに出す答えには、買う、買わない、判断できない、の大きく3つがある。

・余計なことをしゃべって、お客さんの思考を中断すると、『判断できない』の答えになってしまうことがある。それはすなわち、商談の失敗を意味する。

・営業マンはお客さんが判断しようと考え始めたら、決して邪魔をしてはならない。

 このようになります。

 自分で考えるという作業をやりなれている人は、考えている最中に中断されると考えがまとまらない経験をしていることでしょう。そういう人は、人が考えているのを邪魔しないという感覚が腑に落ちます。

 しかし、自分で考える習慣がない人は、じっくり考えるという行為を中断することがどれだけ不快なのか、どれだけ買って頂くことにマイナスなのかといったことがわかりません。小売店の販売員には、お客さんが迷っているところでまくしたてる人は多いですね。ひどいところだと、マニュアルでそうなっています。自分で考えることを放棄しているタイプの人は、まくしたてられて買うというケースもあるかもしれませんが、B2Bのビジネスの決裁者においてはほとんどいないでしょう。

 沈黙を恐れてはいけません。それは売りつけるという後ろめたさから来る恐れであることが多いように思います。そういった考えを捨て去れていれば、沈黙は怖くなくなるはずです。

 ただ、私が見たケースですが、ひどい場合には、沈黙が嫌なので語尾を女子高生のように伸ばしてしまう人もいます。語尾はスパッと切るほうが心地よいです。このような場合には録音をして自分の声を聴いていただくといったことが必要になりますが、さすがに語尾を伸ばして話していることに気づくと、多くの人は恥ずかしそうにして、しっかりと直そうとします・・・。

 さて、次はいよいよ最後です。彼女は果たして契約が取れたのでしょうか?インセンティブをもらうことができたのでしょうか?

 それでは今日はこのあたりで。次回をお楽しみに。