純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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 近頃、絵が好きで好きで、どうしても絵が描きたくて、気が付いたら絵描きになってしまっていた、というより、とにかくなんでもいいから有名になりたい、絵、それもネット上の在りものの絵を組み合わせただけのコラージュとかなら、自分にも簡単にできそうだ、という、ただの「ワナビー(なりたがり)」、アートタレント志望が、そこら中にいっぱい。お笑いは嫌いだけど、有名になるために、とりあえず漫才でも、というのと同じ。たしかに、いったい何をやり遂げた人なのかわからない、文字通り有名無実な「セレブ」たちが世に溢れているが、それにしても、安直すぎないか。


 作品は、作ればなんでも作品、というわけじゃない。「著作物」が著作物であるためには、表現でなければならない。たとえば、パンの写真は、パンにすぎない。いまどきのカメラは、だれでも撮れば写る。ただの光学的な結果。ところが、プロのカメラマンは、パンに、パン以上のもの、おいしさ、さらには、朝の光景、や、日常の幸せ、を写し出す。被写体など、表現のための手段にすぎない。モデルやカメラを使って表現しているもの、それはモデルやカメラではなく、むしろアーティスト自身の内なる思想や感情だ。


 よく美術館で顔を近づけて絵を見ている人を見かけるが、いくら絵の具を見ても、絵は見えない。むしろ絵の具もキャンバスも透明になったとき、そこに風景や人物、さらにはその風景や人物を通じて、世界の安寧や活気や混沌、人間の崇高や苦悩や卑俗が見えてくる。映画でも、フイルムやスクリーン、役者や脚本、すべて忘れ去ったとき、その向こうに、人間のドラマが見えてくる。小説でも、文字も本も消え、まさに目の前に登場人物たちが現れて、語り、ふるまってこそ、我々はその物語世界に引き込まれる。音楽でも、名演奏では楽器も演奏家も消え、ただ世界全体にメロディとハーモニーが漂い、田園の風景や運命の厳しさが聴く者の心の中へ直接に飛び込んでくる。


 つまり、作品は、もとより色も形も無い思想や感情を投射するための、いわば「芸術的光学装置」。だから、表現手段としての作品のパーツは、そこらの在りものでも、版権を買ってきた他人のものでも構わない。実際、絵の具でも、楽器でも、フィルムでも、ほとんどすべてのの近代のアーティストは、市販のものを使っている。(昔は、そこから自作した。)造形でも、石やアクリルなどの素材は買ってきたものに決まっているし、すでに立方体や球に加工済みのものを使ったって構わない。それどころか、オーケストラの指揮者や映画の監督は、ぜんぶ他人にやらせる。


 それでもいいのだ。重要なのは、その構造、組み合わせ方だから。物理的なものにすぎない絵の具や光、音が、絶妙な具合で配置されるとき、それらの手段の存在はすべて透明になり、その配置は、その全体として、我々の心の奥底に潜んでいた思想や感情を照らし出す。色も形も無く、言葉で語ることもできない深遠で繊細で曖昧模糊とした思想や感情を、明確に、くっきりと人から人へ伝えることができる。


 この配置は、唯一無二、と言ってよい。演劇や演奏など、その日、その時にしか、絶対に成り立ちえない感動であったりもする。たとえば、ベルリンの壁がハンマーで打ち砕かれつつあったその時、東西に分断され、半世紀以上も顔すら見たことのない人々が、壁のそれぞれの側で、楽器を持ち寄り、声を張り上げ、向こうにまで届けと、ベートーヴェンの『第九』、歓喜の歌を夜明けまで歌い続けた。それは、それが、これまで異なる体制の下に閉じ込められてきた彼らに、同じ歌、同じ文化を共有する兄弟であった真実を、思い出させたからだ。


 これは、実用的なデザインでも同じ。たとえば、トイレの案内表示の標識でさえ、その標識の棒の下に犬のようにおしっこをかけるわけではなく、その案内表示は案内表示として透明になり、その向こうにトイレの方向を指し示す。まして、ロゴマークは、ただの平面の色と形の塊ではなく、そこに理念や理想がイメージとして凝縮されて表現されている。ただ、難しいのは、その実用性、つまり表示的な投影能力が、その作品単独で担保されなければならない、という問題だ。ごちゃごちゃと言葉を補って説明しないとわからないようなデザインは、デザインとして失敗している。


 しかし、いかにして小さな色と形の塊だけで、複雑に部品を駆使する絵画や音楽、映画なみの投影をやり遂げることができるのか。ここでは、見る者の側の既存の文化コードを投射装置の地として援用する。文化コードには、人類普遍のものもあれば、特定の歴史的文化の中でだけ共有されているものもある。たとえば、フェミニストは頭の理屈で文句をつけるが、世界中の公共の場所のトイレの案内表示に見られるように、世界普遍に確立されている文化コードとして、ピンクは女性を、青ないし水色が男性を象徴している。黒は死の色、赤や黄は注意喚起の色だ。菊や葵の紋を思わせるものは、日本では禁忌。ハーケンクロイツは、欧米ではナチスの象徴として法的にさえ禁止されているが、日本では寺院を表す地図記号(巻き方が逆ではある)として平気で使っている。作り手自身の文化コードで問題が無くても、広い世界の中のどこかの受け手の文化コードとして機能しない、意味がわからない、それどころかなんらかの禁忌に抵触してしまうのであれば、そのデザインはデザインとして失敗している。


 さて、パクリだ。他人が苦心惨憺して絶妙の配置に組み上げた作品の構造はわからなくても、コピーやトレースで物理的に同じに色や音、光を組み上げるなら、その芸術装置は機能してしまう。試行錯誤も無く、他人が作ったもの、自分が感動したものを見て、それを同じように組み上げるだけで、なぜそれでうまくいくのかわからなくても、ものそのものは、子供向けのプラモデル並みに簡単に自分でも作れてしまう。おまけに、それでほんとうに人が感動してしまうのだ。まるで魔法使いの弟子になったような気分だろう。


 自分が作った。たしかに、物理的にはそうだろう。だが、芸術において、作る、創造する、というのは、素材を物理的に組み立てることではない。人を感動させる、思想や感情を表現し伝える投射構造の絶妙な配置を考案するところこそが作ることであって、実際の物理的な作業は他人に依頼してもかまわないし、その製作作業の中に多種多様な専門技能を含まざるをえない現代ではむしろ、建築はもちろん音楽や映画その他でも、多くの専門技能者を集めて作らせる方が一般的だ。それで、アーティストの仕事は、近年、「製作」ではなく「制作」の名で呼ばれる。そして、制作としての構造の考案工夫にこそ、思想や感情を表現する「著作」としての権利と名誉が与えられ、実際の物理的な製作の作業は、Work for hireとして、賃金対価以上の意味を持たない。


 文化は模倣によって発展してきた。たしかにそうだ。だが、それは、このような投射装置の構造を学び、より鮮明に、より肉薄して思想や感情を表現できるよう、工夫を模索することにおいてだ。模写は、その投射装置の構造を分析し、追認し、理解する研究としてしか許されない。まして、ただ物理的に「製作」しただけで、自分が作った、などと詐称することは、絶対に許されない。装置の改良改善なしに、制作者を名乗ることは認められない。


 こざかしい者は、それゆえ、見た目に似てないように、と、どうにか他人の作品をいじくって、自分が作った、オリジナリティを加えた、オレはアーティストだ、と言い張る。たとえば、色の多様性の余地を残してストイックにモノクロで完璧に無駄なく仕上げられたものに、色を塗って、梅干のような赤い丸を描き加えてみたりする。だが、絶妙なギリギリの危ういバランスで、かろうじて思想や感情の投射装置として機能しているものに、ろくに構造もわかっていないドシロウトが手を入れれば、それはもはや投射装置として心の焦点を結ばなくなってしまう。それは誰も感動させない。なにを表現しているのか、さっぱりわからない。ただのガラクタの寄せ集めだ。


 ところが、こういう芸術の基礎の基礎もわかっていないようなドシロウトが、年来、プロと称し、仲間内で賞を与え合い、世間の人々を口先で騙し、大金を巻き上げ、おまけに大学に教授として潜り込んで、右も左もわからぬ若手をたぶらかし、盗作剽窃の手先に使ってさえいる。騙されるな。きみはほんとうにその「作品」に感動したか。感銘を受けたか。心が震えないとしたら、それはガラクタだ。そんなクズにカネを出してやるいわれは無い。また、たとえ感動したとしても、それは本当にそいつが創ったものか。そいつがその工夫の独自性をきちんと自分自身で証明できるか。そうでないなら、それは不正な盗品だ。さらにまた、クズや盗品に騙されている愚かな連中と関わるな。偽物に近づけば、きみ自身まで偽物の一部として蔑まれることになる。


 まして、きみ自身が芸術の詐称者になど、なってはならない。それで一時の名声と財富が得られても、広い世界には、絶対的に見抜く目のあるやつがいる。ズルはいつかかならずバレて、地の底に落とされる。いや、市井の人々の、曇りの無い目や耳こそ、けっして長く騙し通すことはできない。希少で国内では入手困難な海外の図録や名盤を元にしているかぎり、けっしてバレはしまいと、これまで好き勝手にパクリをやってきて、勲章までもらったやつなどは、いま、震えて眠れもしまい。ネット時代になって、元ネタが世界中から簡単に手に入るようになり、もはや誰の目にもその盗作剽窃は明らかだからだ。


 アートをやるなら、一心不乱に取り組め。世間など気にせず、作品にのみ打ち込め。先人たちの工夫を本気で研究しろ。そして、一歩でも、半歩でも、言葉にならない、絵や音でしか表現できない、きみの、そして人類普遍の思想や感情に迫れ。売れる売れないは時の運。これまで誰も手にしたことのない感動こそが、世間での虚栄以上の、至上の報酬。たとえ人に知られることがなくとも、きみは、きみが見つけ出した心の感動とともに、歴史ある芸術の栄誉ある殿堂に招き入れられるのだ。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソ ン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)