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「10倍」プログラマーという神話が問題な理由。

Djangoの主たる貢献者、ジェイコブ・カプラン=モスは偉大な人物だ。だが、本人は自分自身を「英雄的プログラマー」ではないとしている。

PyConの基調講演で彼が語ったように、スーパープログラマーか、弱小開発者か、という二分法は全くの間違いだ。

しかも、それは害悪ですらある。開発者を「一流」か「三流」かで判断しては、その中間の存在を無視することになると彼も述べている。その結果、優秀な開発者は長時間にわたって酷使させられ、一方では劣等プログラマーには仕事が与えられず、業界でのキャリアを積めないという状況はよく起きている。どちらも好ましいことではない。

人はみな並の人間だ

世間の評判通り、カプラン=モスをDjangoの発案者、あるいは共同開発者とするのは、実は適切ではないかもしれない。しかし、多くの人は彼を素晴らしいプログラマーと評し続けるだろう。

実際には違う。少なくとも、彼自身の基準ではそうだ。彼はPyConの参加者に「私はせいぜい並のプログラマーといったところです」と語っている。

果たして本当だろうか?

確かにそうだ。日々努力を続けている点では、彼もわれわれも同じである。レイク・ウォビゴン効果で知られている通り、自分が並以上の存在だと思いたいのはみんな同じだ。だが、ほとんどの人間は、よく見る正規分布の真ん中付近にいるというのが現実だ。

彼はこのように続けている。「10倍」プログラマーという悪質な神話の信仰によって、求人担当者は「プログラマーらしい」見た目の白人男性を求め、多様性が失われ、本物の開発者を排除することになってしまう、と。有能な開発者を引き抜こうとする激しい競争は、この神話に悪影響を与えるだけである。

このような状況に未来はない。

普通であることの不安を払拭する

リーナス・トーバルズのようなプログラマーを理想とする神話によって、われわれは「高すぎるハードル」を作ってしまったとカプラン=モスは述べる。そうではなく、もっとハードルを下げ、「平均というのは実はすごいことだ」と思えるようにしなければならない。

そうしなければ、われわれは貧しいモノカルチャーに陥ってしまうだろう。ジェイク・エッジは下記のように要約している。

一流か三流かのどちらかしか選択肢がないとなると、熱心に働かなければ、四六時中プログラミングのことばかり考えていなければ、ということになる。ちょっとでも油断すれば劣等プログラマーに逆戻りだ。そうなれば、狂ったように働き、労働時間外にもプログラミング関連についてずっと勉強していなければならないという事態になるだろう。

エッジはこの神話が「プログラミングから人材を排斥し、成長の可能性を大きく妨げている」と考えている。

マイクロソフトに感謝だ

これは素晴らしい基調講演なので、読者には是非とも見てほしい。

これを見ている時、私はマイクロソフトのことを考えていた。同社はいま企業再生の只中にある。しかし、その全盛期においてすら、同社がプログラミングやシステム管理などのレベル低下を招いたのは許しがたい、と考えるような超人プログラマーの不平不満を一手に引き受けていた。

だが実際には、ほとんどの人間にとってレベルを下げるのは必要なことである。マイクロソフトが成功を収めたのがその証拠だ。同社のおかげで、平均的なプログラマーは良い成果を上げられるようになった。つまり、マイクロソフトはカプラン=モスの批判する「10倍プログラマー」信仰という悪しき神話を解体したのである。

カプラン=モスの考えを踏襲すれば、必要とされるためには超優秀にならなければいけないという思考の新しい開発者世代を抱えていることを私は懸念している。一つにはこれによって「フルスタック・エンジニア」を理想とするあり方が推進されているのだが、幸運にも、この現象は衰退を始めている。Redmonkのアナリスト、スティーブン・オグレディは以下のように述べている。

開発者は新しいテクノロジーに対して貪欲であったが、過ぎたるは及ばざるがごとし、という段階に到達しているのかもしれない。もしそうなら、徐々に安定化することで、一流か三流かという分断は落ち着きを見せる、というのが論理的に導かれる結論だ。

安定化によってレベルが低下し、われわれは問題を解決するにあたって同類のテクノロジーを利用することになる。こうして、並以上であるフリも必要なくなり、平均的なプログラマーがたくさん現れることになるだろう。

カプラン=モスが述べているように、それこそが最高のあり方だ。

トップ画像提供:Alexandre Dulaunoy

Matt Asay
[原文]