吉永小百合を筆頭に、ただ清純なだけで銀幕の主役を張れた60年代。これが70年代になると、より奔放に、より世代に向き合った女優たちが台頭する。それはまさしく「70年代ニューシネマ」と呼ぶべき輝きだった。そんなヒロインたちの先陣を切ったのは、1970年にデビューした「15歳の関根恵子」である。
 75年に公開された「青春の門」(東宝)は、五木寛之の自伝的長篇を初めて映画化した。九州・筑豊を舞台に、自立する少年・伊吹信介(田中健)と、美しい母(吉永小百合)や初体験の相手(大竹しのぶ)との愛憎が主題の物語である。

 当時、中学2年生だった筆者は、同じ九州の片隅の映画館にひっそりと観に行った。中学までは学校が許可した映画しか観てはいけない決まりだったが、初めて禁を破ったのが同作である。吉永小百合の自慰描写や、新人・大竹しのぶの乳房にも驚いたが、何よりも目を見張ったのは関根恵子──現在は高橋惠子(57)が演じた高校の音楽教師・梓旗江だった。

 信介にとって憧れの対象である美しい女教師には、アメリカ人記者の恋人がいた。信介は偶然、その情事をのぞいてショックを受けるのだが、筆者にとっても衝撃は今なお残る。初めて巨大スクリーンで観た「濡れ場」の迫力だけでなく、関根恵子の肌のまぶしさや、絡み合う肉体の生々しさが驚きだったのだ。

 70年代の邦画史でも特筆すべきベッドシーンとの評価だが、高橋は当時の撮影を振り返った。

「恋人がアメリカへ帰ってしまうせつなさが、あのシーンに反映されましたね。そうそう、梓旗江は音楽教師だから、吹き替えなしでピアノを弾けるようにと浦山桐郎監督に言われました。だから家にピアノを買って半年近く特訓をしました。監督は映画に対する情熱が高くて、厳しい中にも人情味も感じられました」

 高校教師という役だが、実際には19歳になったばかり。しかも高校生役の田中健のほうが5歳も上だった。こうした逆転現象が不自然でないのは、当時の関根恵子が健康的な肢体でありつつ、母性に満ちた色香をまとっていたからだ。

 この映画に魅せられた筆者は、やがて原作を読み漁り、信介と同じように東京を目指した。あの日の「梓先生」のような魅力的な女性を描くことにこだわり、こうして文筆業の末席に身を置いている。

 さて、関根恵子の出発点は中学2年にさかのぼる。

東京・府中の写真館に家族旅行のフィルムを持って行くと、そこに居合わせた大映のスチールカメラマンからスカウトされた。

「父がもともと役者志望だったこともあり、家族は大喜びだったんですよ。卒業まではマンツーマンで演技や日舞、お茶に体操とレッスンが続きました」

 中学卒業と同時に大映に入社し、6月には早くも主演デビュー作「高校生ブルース」の撮影に入る。

「関根君、この映画をやってもらいます」

「ハイッ!」

 撮影所長から台本を渡され、その場で元気よく返事をした。そして家に帰って熟読すると、上半身のヌード場面や、恋人に下腹部を蹴られて流産させられそうになるシーン‥‥。

「それはもう恥ずかしさの極致でした。でも返事をしたのだから、これは引き返せない。そうは思っても撮影に入れば50人くらいのスタッフの方がいて、ヌード撮影では自分の足が地面から10センチくらい浮いてしまうような感覚でしたね。試写の場でも、そのシーンだけは目をそらしていました」

 それでも、完成作を観た父親の「よく頑張ったな」の一言に支えられた。そこから華々しい〈関根恵子時代〉が幕を開ける──。
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