岡田監督のチーム作りはオシム流の継承から始まった<br>(photo by Kiminori SAWADA)

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 年内最後のカタール戦に3−0で快勝し、日本代表の2008年は幕を閉じた。最終予選が2勝1分けという順調な滑り出しとなったことで、岡田武史監督率いるチームの周辺は穏やかな空気に包まれている。

 イビチャ・オシム前監督の突然の退任で、岡田監督が就任してからおよそ1年あまり。二度目の“登板”となった指揮官のもとで、日本代表はどのような変化を遂げてきたのか。起伏に富んだ08年を振り返ってみたい。


 07年12月7日、緊急の記者会見がJFAハウスで開かれた。数週間前には、予定されていなかったものだった。登壇者は日本サッカー協会の川淵三郎キャプテンと、代表チームを指揮することになった岡田武史監督だった。

 会見の冒頭で、岡田監督は率直な思いを明かした。

「一週間前までは、自分が監督に就任するなどとは考えてもいませんでした」

 98年以来2度目の就任は、『無投票再選』とでも言うことができた。

 ワールドカップ3次予選は、翌年2月に開幕する。チーム作りにかけられる時間は少ない。日本についての予備知識が少ない外国人監督の招聘は、たとえ実績豊かな人材でもリスクが伴う。短期間でチームを掌握でき、かつ代表監督の重責を担える人材という条件を満たすのは、岡田監督以外に見当たらなかっただろう。オシム前監督の築いた基礎を引き継ぎ、そのうえでチームを南アフリカW杯へ導くというのが、新監督に課せられたミッションだった。

 指揮官もオシム流の継承を明らかにした。

「いままでの代表監督、札幌、横浜FMでは、うまくいっていないので代わってくれということでした。今回は決してうまくいっていないわけではないので、最初から自分の色を出してグッと引っ張っていくのは得策ではないだろうと思います。できる限りいまあるものを生かして、予選のなかで少しずつ作り上げるのがベターかなと」

 岡田監督の初陣となった1月26日のチリ戦のメンバーには、オシム監督のもとでプレーしていた選手がズラリと並んだ。初招集は岩政大樹ひとりである。

 この試合で国際Aマッチデビューを飾った内田篤人は、いまや“岡田チルドレン”とも言うべき存在だ。ただ、07年初夏のU−20ワールドカップや、同年秋の北京五輪アジア最終予選に出場したこの右サイドバックには、オシム前監督も注目していた。代表候補合宿に招集したこともある。そういう意味で、岡田監督が発掘した才能とは言い切れない。

 岡田カラーはむしろ、キャスティングではなく戦略で打ち出された。前監督のもとでボックス型が基本だった中盤が、1ボランチのダイヤモンド型に変更されたのである。2月6日に控える南アフリカW杯予選のタイ戦へ向けて、より攻撃的な布陣をテストすると考えることができた。就任直後に選手たちに発した「世界を驚かせよう」というメッセージが、ピッチ上に具体的に表れたと言うこともできただろう。

 しかし、1ボランチ構想はすぐに薄れていく。北朝鮮、中国、韓国と対戦した東アジア選手権では、1ボランチとダブルボランチが使い分けされた。同大会では、田代有三を1トップとする4−2−3−1にも乗り出している。また、就任当初に掲げられた「接近・展開・連続」のコンセプトも、なかなか輪郭を帯びてこない。

 チーム結成から数カ月で、いきなり多くの成果を求めるのは酷だ。とはいえ、試合ごとの変化や成長を感じやすいのも、チーム結成当初の特徴である。漠然とした停滞感は否めず、そこには指揮官の悩みが見え隠れしていた。

 岡田監督の試行錯誤は続く。敵地マナマに乗り込んだ3月26日のバーレーン戦に、ぶっつけ本番の3バックで臨んだのである。0−1の敗戦はいくつかの要因が絡み合った結果だが、3−5−2への変更が引き金となったのは間違いなかった。

「結果としては残念ですが、アウェーだし、今度のホームで勝てばいい。予選はまだまだ続きますし、これからまだ時間もあります。十分にやっていけると思います」

 試合後の記者会見に臨んだ岡田監督は、つとめて冷静に、かつ前向きなコメントを繰り返していた。しかし、淡々とした言葉の裏側で、指揮官はキャスティングの大幅な見直しを考えていた。すなわち、オシム流との決別である。

(以下、次回につづく/全5回予定)

戸塚啓コラム - サッカー日本代表を徹底解剖