上京10年目:東急東横線から見下ろす目黒川の記憶。大切な人から目を逸らした日
―東京にいる意味って、何だろう―。
仕事のため、夢のため、欲望のため……?
上京10年となる節目の年に、人はあらためて問う。
自分が東京にいる意味と、その答えを。
28歳の朝子もその一人。朝子が抱える東京への固執と葛藤は、どこに着地するのだろうか。
18歳で上京した朝子だが、このまま東京にいていいのかという迷いが芽生え、東京と故郷の間で気持ちが揺れ始める。食事会で東京出身の良太と出会ったことや、風邪で寝込んだことでさらにその気持ちは強くなった。
東京で桜が咲き始めた頃、良太くんと何度目かの食事に行った。
気付けば良太くんとは、気の置けない飲み友達みたいになっていて、変に意識しなくていい今の関係が心地良い。
当日の20時に「これから、軽く1杯行かない?」と気軽に誘える男友達。
残念な結果に終わった食事会の後なんかに気まぐれで連絡しても、タイミングが合えば来てくれる。
付き合うとか、駆け引きとか、そんなことを気にしなくていい関係。大人になるとそれは、意外なほど貴重だった。
最近やたらと後ろ向きだった気持ちも、なんとか持ち直してきた。良太くんのお陰で、というのも少しはあるかもしれないけど、大きな理由は仕事のこと。
前から担当したいと思っていた大手化粧品メーカーが、この夏に力を入れて展開するというイベント。その担当を任せてもらえることになったから。
最近、恋愛と同じくらい仕事が楽しいと思えるようになってきた。
これって、アラサーでいわゆる適齢期の私にとっては、あんまり喜ばしいことではないのかもしれないけど、でも仕事を頑張ってる自分も嫌いじゃない。
たまたま通ったある場所で、上京当時の思い出が蘇ってくる。
友人宅に行く途中、目にしてしまったある景色
週末は、去年の秋に結婚した友達夫婦の新居に遊びに行ってきた。
奥さんのユキナは大学からの友達で、ちょうど10年になる仲。彼女の恋愛遍歴を細かく知っている私は、結婚式では涙が止まらなかった。
スライドショーで使う写真も沢山提供した、思い出深い結婚式。
引っ越してようやく落ち着いたから、ぜひ遊びに来てと誘われ、学芸大学に向かうことになった。
広尾にある『船橋屋こよみ』で、ユキナの好きなくず餅プリンと特製くず餅入あんみつをいくつか買った後、引っ越し祝いをヒカリエのコンランショップで探した。
そこで買ったのはホームパーティー好きの夫婦が重宝してくれるような、大きめのプレートを2枚。
だから渋谷から東急東横線に乗る時は、両手に荷物を抱えていて、狭い改札を通るのもやっとという状態。
電車に乗っても紙袋を床に置くこともできず、ドアにもたれかかるようにして外を眺めることにした。代官山で電車が地上に出るまで、暗い窓に映る自分の顔をぼんやり眺めながら。
自宅のある代官山を過ぎると、窓の外にピンクに色づく景色が目に飛び込んできた。そこには目黒川を覆うように、満開の桜がずらりと並んでいる。
電車の中からは、小さな歓声も聞こえてきた。大学生か社会人になりたてのような女の子2人が「わあ、綺麗!」と言っていたり、若いお母さんが小さい子どもに「ほら、綺麗でしょ」と優しく微笑みかけたり。
私はというと、桜に見とれながら10年前のことを唐突に思い出した。
上京して間もない頃、母と2人で見上げた目黒川の桜。
福岡空港で、やたらとタバコをふかしていた父は自宅に帰り、母と2人で上京した私。母は1週間ほど東京に滞在した。
その1週間の間に、目黒川の桜は一気に花開いた。
でも当時の私は、桜なんてどうでもよくて、家具やキッチン用品なんかの一人暮らしグッズを買ったり、これから必要になる洋服を買い揃えるのに忙しかった。
だから、母が福岡に帰る日の朝になってようやく、ゆっくり目黒川の桜をみた。
「帰る前に、せっかくだから近くで見たい」
母のリクエストだった。
あの日の母の顔を、思い出せないワケ。
電車嫌いの母は、祐天寺のマンションから歩いて行こうと言った。私は渋々OKと言ってスニーカーに手を伸ばした。
ゆっくり歩いて中目黒の駅を過ぎ、目黒川に着くと満開の桜が咲いていた。すでに川の水面にも桜の花びらが舞い落ちていて、初めてみるその景色に感動したことは、今でもよく覚えている。
ただ、あの日の母がどんな顔をしていたのか、それがどうしても思い出せない。
「朝子は、これから毎年この景色を見れるんやね」
そう呟いた母の、薄いベージュのブラウスの襟や、くせ毛を生かしてカールさせている髪の毛先が、春の風でひらひらと揺れていたのは覚えているのに、母の顔だけはどうして思い出せない。
いや、正確にはあの日、私は母の顔を見ることができなかった。
東京に強い憧れがあった私だって、さすがに慣れない土地でのひとり暮らしや新生活に、不安はあった。
―今日から、本当に一人暮らしが始まるんだ。
期待の方が大きかったけど、寂しさはもちろんあった。
母の顔を見ると弱音を吐いてしまいそうだったから、自分の弱さを隠すため、母の顔を見なかった。
あの日の母は、一体どんな顔をしていたんだろうか。
笑ってた?心配してた?悲しんでた?それとも、誇らしかった?
思えば私は、母が言った通り、目黒川の桜を毎年見ることになった。
女友達と桜を見ながらお酒を飲んだり、彼氏と一緒に手を繋いで歩いたり、一人で肩を落として、落ちている花びらばかりを見ていたこともある。
去年くらいから、目黒川の桜を見ては迷うんだ。
あと何年、この桜を見続けるんだろうって。
◆
月曜の夜、『ワインスタンド ワルツ』に良太くんを呼び出し、飲むことにした。
スタンディングだから、さくっと1、2杯飲むのにちょうど良い、お気に入りのワインバー。
クライアントへの大事なプレゼンが成功したから、気持ち良くお酒が飲みたい気分だった。
「月曜から飲みたいって、何かあったの」
「別に、ただ飲みたくなっただけ」
説明しなくてもいいかと思ってそう言うと、良太くんは「なんだよそれ」と笑いながら、グラスを持ちあげて乾杯する素振りをした。
良太くんはいつも、ほんのりと良い匂いがする。香水のように主張が強くなくて、柔軟剤ほど家庭的で柔らかでもない、不思議な匂い。
今も、グラスを持ちあげた時にふわりと漂ってきた。身体か、洋服か、髪の毛か。その出どころはわからない。
「きのうね、電車から目黒川の桜がすっごく綺麗に見えたんだ。それ見たら上京した当時のこと思い出しちゃった」
文京区に実家がある良太くんには、私の気持ちなんてわからないよねって思いながらも、言ってみる。
案の定、「地元ってそんなにいいんだね」と言うくらいで、同調も否定もされない。
でも、この感じがちょうど良いんだと思う。近過ぎず、遠すぎない絶妙な距離感。
「あと何年、目黒川の桜を見るのかな」
良太くんに聞くわけでもなく、なんとなく呟いた。私の声は、良太くんには届かなかったのか、彼は満足そうにグラスのワインを眺めていた。
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法事のため、実家に帰る朝子。地元と家族への想いがさらに強まってしまう……?