小林信彦・萩本欽一『ふたりの笑(ショウ)タイム 名喜劇人たちの横顔・素顔・舞台裏』(集英社)
記事本文でとりあげたテレビ番組「九ちゃん!」には、その後、萩本もコント55号として出演している。ただし、このとき台本を無視してアドリブをしたところ、ディレクターの井原高忠に怒られたという。その後、井原から新番組『ゲバゲバ90分』への出演を依頼された萩本は、先の経験から、「また怒られながらやるのは辛いので、ぼくはやりたくない」と答えたが、井原から「じゃあ、欽ちゃんのことは怒らない」と言われ、それで引き受けることにしたのだとか。「怒らない?」と聞いてしまう若き日の欽ちゃんが、何だかマンガ『ぼのぼの』のシマリスくんみたいでかわいい。

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きょう2月14日放送の「笑っていいとも!」のテレフォンショッキングのコーナーに萩本欽一がゲスト出演する。番組公式サイトのオンエア情報によれば、タモリと萩本の2人によるトークは初めてらしい。

もっとも2人はまったくの初対面というわけではない。最近刊行された、萩本と作家の小林信彦との対談本『ふたりの笑(ショウ)タイム』(集英社)によれば、タモリはかつて萩本の家からすぐ近くのアパートに住んでいて、いちど萩本宅にやって来たことがあったという。それは本当に唐突だったようだ。ある日、萩本が当時一緒に暮らしていた放送作家集団「パジャマ党」の面々とともに番組用の台本をつくっていたところ、ドアを叩く音がする。そこで作家の一人が玄関まで見に行くと、あわてて戻って来て、「げっ、玄関の前にタモリがいます!」と報告したという。

萩本もびっくりしながら玄関まで出ていき、「な〜に、どしたの?」と聞けば、「いや〜、近くに住んでるんで、面白そうだからピンポンしたの」とタモリ。「あ、そう。じゃあそんなとこにいないで上がんなよ」と家に上げると、タモリはその後3時間、みんなをさんざん笑わせ、これでは仕事ができないとやむなく帰ってもらったのだとか。

「ちょっとお邪魔します」などとかしこまって入ってくるのではなく、冗談っぽくスルッと入ってきて、当時まだ若かった作家連中を笑わせっぱなしにしたタモリを、萩本は《もうシャレとしては最高!》と褒めちぎる。そもそもタモリのデビューのきっかけは、九州のホテルで山下洋輔らジャズミュージシャンが芸を見せ合っているところへ飛びこんでいったことだったわけで、それを思えば、萩本宅への突然の来訪もいかにも彼らしい。

萩本はまた、タモリ来宅の意図をこう推測してみせる。

《突然だれかのうちに行くっていうのは、自分にないものを吸収しようと思ったり、前進したいからなんじゃないの? もっと成長したいとか、真剣に自分の未来を考えてる人は、積極的に人に会いに行ったり、よそのうちに飛び込んでいくんですよ》

じつは萩本が初めて小林信彦と出会ったシチュエーションが、まさにそのようなものであった。

同じく『ふたりの笑タイム』によると、1960年代後半、歌手・坂本九をメインとした「九ちゃん!」というバラエティ番組に構成作家のひとりとして参加した小林が、ディレクターの井原高忠やほかの作家たちとともにホテルにこもって台本をつくっていたときのこと。みんなが打ち合わせをしている部屋へ、萩本がひょっこり顔を出したことがあったという。

萩本は当時、坂上二郎とのコンビ「コント55号」で人気が出始めていた頃だが、「九ちゃん!」に出演していたわけではない。それにもかかわらずやって来た彼は、帰り際に「ぼくの出番はないでしょうね?」と言いながらいったん部屋を出て行ったものの、ちょっとしたら戻って来て、また一言面白いことを言って部屋を出て行き、さらにまた戻って来て、ギャグを披露し……というのを何度もしつこく繰り返し、小林たちを大笑いさせたという。萩本が帰ったあと、みんなで「あの人は並みのおかしさじゃないね」と語り合ったと、小林は明かす。

このエピソードは小林の著書『日本の喜劇人』などにも出てくるので、半ば伝説と化しているが、当の萩本がこのときのことを語ったのはおそらく今回が初めてではないか。ただし本人は、そこで自分が何を話したかとか、一切記憶にないらしい。コント55号を売りこもうとか、そういうつもりもなかったようだ。

それでもなぜホテルに行ったかについては、はっきりと覚えていた。当時萩本は、コント55号が急に忙しくなって、コントをつくる時間もとれず、これから自分たちはどういう方向に進むべきなのかわからなくなっていたという。それで、誰かすぐれた人に会いたくて、テレビをあれこれ見ていたところ目に留まったのが「九ちゃん!」だった。自分には絶対できないようなこの番組は、どうやってつくられているのだろうか? そんな興味から、萩本はディレクターの井原に電話して、制作現場であるホテルまで見せてもらいに出かけたのである。

このとき、番組づくりの様子を見せてもらった体験は、萩本のその後の方向性を決めるうえで少なからず影響している。前出のパジャマ党という放送作家集団をつくったのも、ひとつの番組を作家集団が共作するという「九ちゃん!」での試み(日本のテレビ界では初めてだったとか)に刺激されたものだった。

私も含め現在30代後半から40代ぐらいの笑芸ファンやテレビ好きにとっては、萩本欽一はどこか踏み絵みたいな存在だった。うっかり「欽ちゃんが面白い」と言おうものならバカにされかねない、そんな状況がここ30年ぐらい続いてきたように思う。1970年代から80年代にかけての人気テレビ番組「欽ちゃんのどこまでやるの!?」などに代表される萩本の家庭向けの笑いは、彼の浅草の後輩にあたるビートたけしの毒のある笑いに対し、微温的と受けとめられたりもした。

それがここ数年、萩本を再評価しようという動きが徐々に出てきた印象がある。現在のテレビ・バラエティの原点を萩本に求め、その“功罪”を裁判形式で追及した番組(2010年放送の「悪いのはみんな萩本欽一である」)がつくられほか、ビートたけしも、「おれらのようなお笑いの人間が、歌番組で司会をするようになったり地位が上がったのは、萩本さんのおかげだ」というような発言を最近していた。

そこへ来て、この対談本が出ると知って、浅草芸人からテレビタレントへと転身をとげた萩本の軌跡をたどる意味で私はワクワクしたものだ。実際に読んでみると、萩本が半生を振り返るとともに、小林から日本の喜劇史のレクチャーを受けるという、何とも贅沢な内容となっていてうれしかった。ちなみにこの本はもともと、往年の喜劇人について造詣の深い小林から話を聞いておきたいという萩本の希望から企画されたものだという。「自分にないものを吸収したい」という萩本の姿勢は、70代となったいまも変わらないようだ。

2人の語る、往年の喜劇人についてのエピソードもいちいちおかしい。クレイジー・キャッツの谷啓の奇人ぶりを示す逸話は、小林がこれまで何度となく紹介してきたが、萩本からも同様の話が飛び出す。谷啓のギャグ「ガチョ〜ン!」をとりあげたくだりでは、熱烈なクレイジー・キャッツファンだったミュージシャン・大瀧詠一の名前も登場。ああ、小林信彦に私淑していた大瀧さん本人にもこの本を読ませたかったなあ。

喜劇人といえば当然ながら、萩本の浅草の大先輩にあたるエノケンこと榎本健一についても一章が割かれている。小林が昔観た映画では、エノケンが、家の梁(はり)に上がっていって、そこからポ〜ンと落ちたかと思えばまたもう一回梁に上がったりしていたとか。これなど、とんねるずが若手時代にテレビの生放送中に、スタジオのセットの上や天井から釣り下がる照明によじ登った話とつい重ね合わせてしまう。そういえば、かつてその身の軽さから、木梨憲武をエノケンの再来だと誰かが評していたはずだが、あれはやはり小林信彦ではなかったか。

身軽さでいえば若い頃の萩本も、エノケンに引けをとらなかったようだ。小林は、テレビで萩本が椅子に腰かけたまま跳んだのを観たことがあるという。さらに驚かされるのは、森繁久彌もまた、若い頃はよく体の動く人だったという事実だ。小林によると、映画「次郎長三国志」シリーズのある作品で森の石松を演じた森繁は、廊下の角を歩いて曲がるのではなく、ヒュッと跳んだのだという。年老いた森繁しか知らない世代には意外だが、逆にいえば、身軽なことはかつての(あえていえばテレビが全盛を迎える以前の)喜劇役者にとって欠かせないことだったのだろう。

このほか本書では、いかりや長介、植木等、青島幸男、フランキー堺、渥美清、三木のり平などいまは亡き人たちから、さらには現役バリバリの三谷幸喜や宮藤官九郎(小林は「あまちゃん」のファンだったという)までじつに多くの人たちが話題にのぼる。それらエピソードをここでいちいち紹介してしまうのはもったいない。ぜひ、実際に読んで確認してほしい。昔からの小林信彦の読者には、『日本の喜劇人』などの著書の内容をおさらいしたり補足することができて楽しいし、小林のことも昔の笑芸のこともよく知らない世代には格好の手引きとなるはずだ。

*『ふたりの笑(ショウ)タイム 名喜劇人たちの横顔・素顔・舞台裏』(小林信彦・萩本欽一/集英社)
*『日本の喜劇人』(小林信彦/新潮文庫)
*『ビートルズの優しい夜』(小林信彦/新潮文庫) ※本書に収録された短編のうち「踊る男」は萩本欽一をモデルにしている
*『なんでそーなるの! 萩本欽一自伝』(萩本欽一/集英社文庫)

(近藤正高)